幻を追い主に従う恵み

2021/04/25 復活後第三主日礼拝 マタイ130(26:57〜75)

幻を追い主に従う恵み                                                               牧師 上田彰

 *主に従う

 私たちは、主に従おうと願っています。従いきれない自分が、それでも主によって受け入れられているということを信じながら、なお従い続けることを願っています。そのような歩みの先頭をひた走る人物として私たちの目の前にいるのが、ペトロです。教会総会を午後に控えた今日、私たちがペトロの姿から学ぶことは大いにあると言えるのではないでしょうか。

 最高法院、つまりユダヤ教の宗教裁判に主イエスがかけられるにあたって、散り散りに逃げ出した弟子たちの中で唯一戻ってきたのが、ペトロです。ペトロだって怖かった。しかしこのお方がどうなるのか、見届けないといけないと考えました。そして裁判が行われている大祭司の家の中庭に入り込みました。近所の人たちの一員というふりをして、井戸端会議の仲間入りをします。井戸端会議といっても、単なるよもやま話をするために人々が集まっているわけではありません。彼らは、イエスという男の死刑判決が本当に出るのかどうか、関心を持って集まってきたのです。

 死刑というのは、人の命を奪うことです。当たり前ですが、もし執行するにしても、慎重にしなければなりません。以前に元裁判官という方の手記を読んでいたときに、「自分が死刑を宣告しなければならないことがあるとしたらどういう時か」ということを書いていました。「もしここで死刑を宣告しないとしたら、そもそも死刑制度の意味が全くなくなってしまうと考えられるときに、死刑にする」、という意味のことを書いていたことを覚えています。まだ世界的にも死刑制度の廃止がそれほど大きな流れになっていなかった時期の話です。しかしそのようなときにも、死刑にすべきと取ることもできるし、死刑にするほどではないと取ることもできる、というケースでは死刑にすべきではない、そのような考え方を裁判官が持っているということを興味深く感じました。言い方を変えると、裁判官が自分の頭の中で、検察によって訴えられている被告が目の前にいて、自分が主任の裁判官をしているケース、同僚の誰々さんがしているケース、先輩がしているケースと考えていって、人によって微妙に判決が変わることが、ありうる。死刑に関してはどの裁判官が下した判決でも、中身がブレてはいけないのだが、それ以外の判決はブレる可能性がある、ということです。人間が人間を裁くのですから、ブレが生まれるのはある意味で当たり前です。

 

 *冒涜罪は成立しているのか?

 イエス様が今、最高法院の被告席に立たされています。最高法院のメンバーは全員、イエス様を死刑にしようとしていました。実はユダヤ教の最高法院における裁判のルールは時代によって少しずつ違っておりまして、私が聞いたところでは、現在のルールでは全員が同じ投票結果になった場合は審議をやり直すというルールがあるのだそうです。これは全員が同じ投票結果になる場合、何らかの作為的な力が加わっている可能性があり、冷静に審議をする必要がある、と考えるのだそうです。それよりもさらに遡って、2世紀ごろに確立したルールでは、「神様を冒涜した罪」、つまり冒涜罪で死刑、というのは確かに存在するのですが、その際の冒涜というのは、神様をある特定の言葉をもって呪うというような、はっきりした冒涜でなければ冒涜罪とはならないのだそうです。今日の箇所で、イエス様はご自分が神の子であることを示唆する発言をしています。しかし、それははっきりした冒涜とはいえないのです。従って、少なくとも2世紀以降のルールではイエス様を冒涜罪で死刑とすることはできません。また現在のルールでは、全員が同じ結論になっている場合は審議をやり直すのだそうです。今日の箇所を見ると、それも引っかかってしまいます。最初から全員が同じ結論を下しているからです。どちらを取っても、イエス様を死刑にすることは難しそうです。

では一世紀の場合はどうでしょうか。最高法院に限らず、イエス様を訴える声はある程度あったようです。やれイエスという男が病人を癒した、だから医者だった私の仕事が無くなっただとか、どうやらあのイエスは気が触れている人を操縦したらしい、街に損害を与えられたので賠償をしてほしいというような、嘘を含んだただの言いがかりの証言が山ほど出てきました。本当の証言に基づくのではなく偽証です。ルールでは、二人以上の証言が一致していないとなりませんでした。一致した証言と言えば、安息日を守らないで良いと公に言っていたという件と、神殿の前庭で暴れたという件でしたが、これらは明らかに死刑には値しません。困ってしまって腕組みを始めた最高法院のメンバーの前に、その神殿で暴れた一件の目撃証言をさらに続ける証人が現れました。彼らによると、被告人は「神殿を打ち倒し、三日で建て直すことができる」という発言を公にしたことは間違いないようです。これは決定的なのではないかとまた宗教裁判のメンバーたちは前のめりになります。

そこでイエス様ご自身に大祭司が尋ねました。お前は神の子、メシアなのか、と。その時まで沈黙を続けていたイエス様が、次のようにおっしゃいます。「人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗ってくるのをあなた方はやがて見ることになるだろう」、と。これはイエス様ご自身が神様のすぐ隣にお座りになり、人々を裁く立場としてこの世にやってくる、という預言です。先ほど申し上げました通り、冒涜罪の内容には神様を明らかに呪う言葉を含まねばならないという二世紀に確立したルールによれば、これは死刑に値する内容とはいえません。しかし全員が最初から死刑にすべきだと考えている当時の状況では、十分に死刑に値する発言となってしまいました。平たくいえば、最初から結論は死刑と決まっていて、色々証言も出たのでそろそろ総合的に判断して死刑としましょうかというような審議であったということです。おそらくマタイ福音書を執筆したマタイは、この裁判が出鱈目であることを知った上で今日の箇所を報告・記録していると思われます。

 

 色々考えさせられます。人間が人間を裁くことの難しさというものを、人は本当の意味でわかっているのか、これは先ほど紹介したような裁判官や元裁判官の手記を読んでいると、時折見出すことになる悩みです。判決を下すというのは、法律を当てはめて相場というかその罪名で平均的に課される懲役の長さは大体その罪の最高の八がけ、つまり最大で5年の懲役に当たる罪の場合は懲役4年とするのが相場だというような(これは本当に言われていることではあるのですが)表面的な話をよそにして、そもそも人間が人間を裁いて良いのだろうか、という悩みを持ちながら判決文を記すのが本当の意味の裁判官のあり方なのだ、そうでなければ裁判という制度そのものに対して信頼を得ることができない、だから悩み続けながら判決文を書く必要がある、そこに裁判官としての倫理がある、という印象を持ちます。現代においてもしっかりした裁判官はいるのです。

 では昔はどうだったのでしょうか。聖書に出てくる最高法院のメンバーも、今はイエス様を死刑にすべきといきりたっているので少し見えにくいところもありますが、冷静になれば同じような倫理を持っているに違いありません。そして彼らは、人間が人間を裁くことの難しさを知っているからこそ、イエス様がおっしゃる、人の子が全能の神の右に座るという光景、つまりこれはイエス様が神様と同じ力を持つ裁判官として人々を裁くという預言に対して敏感に反応したのだ、とも考えられます。少なくともここで最高法院のメンバーは誰一人として、イエスという男が精神的に少しおかしくて誇大妄想のようなものに取り憑かれている病気なのだから責任を問うことができない、などとは考えていません。むしろ、この男の、いえこのお方が真摯で真面目に神様の裁き手となるという預言をしていることを知り、その預言を真正面から受け止めた上で、これは死刑にせざるを得ない、ルール上はまだ冒涜罪には少し足りないが、殺しておかないとまずいという理解に改めて全員がたどり着いた、そうも考えることができるのです。

 

 *神様のご計画をうかがい知る--証言の多様性

 今日は教会総会の日です。会議ですから、形式の上では人間同士の話し合いという形を取りますが、会議の真ん中におられるのはイエス様です。もし私たちがイエス様の思いを推し量ることなく、イエス様の思いに耳を傾けることなく、誰々さんの意見とか牧師の意見を受け入れてしまうのであれば、それは教会会議とはいえないことになってしまいます。

「会議において誰かがなしている発言の背後にある神様のご意志だけが教会会議で重んじられねばならない」ということを、私たちは少しの疑う余地もなく信じています。しかしその一方で、「人間の意見表明の背後にある神様の意思だけを切り離すことなどできないではないか、結局は人間の意思だけが会議の中では幅を利かせるのではないか」、「だから会議の中ではむしろたくさんの人の発言や質問がなければきちんと会議をしたことにはならないのではないか」、などと考えることがあります。そこからすると、「私は神の裁き手としてやって来る」などと発言する者を死刑にしなければならないと考える最高法院の気持ちに少し傾きかけます。

 しかし今日の聖書箇所から教会総会のあり方を学ぶ場合に大事なことはもっと他にあると思います。二つのことを読み取ることができると思いますが、今日の話の前半の、死刑で皆の意見が一致するというところまでに関して言いますと、「証言というものの重要さと同時に難しさ」について考えておきたいと思います。証言をするということは一体どういうことでしょうか。イエス様というお方がいる。これは動かし難い事実ですから、証言をしなければならないことではなさそうです。また色々な説教をして弟子を集めたり奇跡をおこなって人を癒したりしたことも、福音書を見て事実だとわかります。その事実そのものを証言をすることも難しいことではありません。しかし、その癒しによって、またその説教によって、自分がどう変えられたかという事は、証言しなければなりません。イエス様に出会って自分がどう変えられたか、これは証しをしていかなければならない事柄なのです。そしてその証しは誰にとっても自分の特有のものです。どれ一つとっても他の証しと同じものはない。二人以上の証言の一致がなければ訴えることができないという習慣を申し上げましたが、何人もの人が、それぞれ違う言葉によって、違う角度から、同じ主の恵みを証言するならば、それは力強い証しになります。

違う言葉、違う角度からの発言ということが教会で食い違いを起こすこともあります。私たちの教会会議に即していうならば、教会でこういうイベントをやりたい。これは伝道のためになる。やらない人は伊東教会が大事にしてきた伝道という事を軽んじる不信仰者だ。そういう意見が一方にあって、他方ではいやそのイベントは今の私たちの体力では無理なのではないか、そういう意見が出て来ることがある。こういう時、私たちは本当の意味で祈りを必要とします。

 

 隣接取得のために、私たちは2年前の年明けから、何度かの懇談会と教会総会を通じて、私たち自身の意見を聞き、それ以上に神様のご意志を尋ね求めました。教会総会の議事録を見ると、2003年ごろに教会将来計画が決議されています。それによればモリヤ献金を駐車場の取得のために用いることはすでに決まっていることになっていました。議事録だけを見て、「教会総会の決議は神様の決議と皆が受け入れていてすでにその方向で合意ができているのだ」と思っていたら、教会総会の時に、「車を持っていない人もいるのだから教会として駐車場を持つ必要はないのではないか」という意見があることを教えられました。それで思わず私も、「今の人のための駐車場というよりは、将来来る人のために駐車場を確保するというのが2003年の駐車場積み立て開始の決議が教会将来計画という名目で決議されていることの意味ではないのですか」などと発言したりもしました。

 実はその時のやり取りがきっかけになって、教会将来計画には深みが加わりはじめました。誰でも自分の意見を絶対化しやすいのです。2003年には皆が「この決議はいい決議だから手を挙げよう」と単純に考えて賛成多数で一旦決まったということかもしれません。しかし地主はすぐには同意しませんでした。「地主が同意しないのならあれは神様の御心ではなかったのだ」といって、教会将来計画の解釈が一旦多様化しました。ある人は「資金は別の目的に使いましょう」と言い、ある人は「いやそれでも教会将来計画の本来的用途は土地の取得でしょう」と言い出す。これは大袈裟にいえば教会分裂の危機です。

 

 その後の議論の経緯は皆様ご存知の通りです。地主との丁寧な下交渉を行った結果、実は譲渡に積極的だという情報が入る。ではどうしましょうといって、教会役員会で議論が始まります。誰も口火を切りません。「牧師はどうなんですか」と聞かれて私も思わず、「私もわかりません、ただ隣接地は借金をしてでも買えという先輩牧師からの言い伝えは聞いたことがあるので、少し審議を続けましょう」と言った記憶があります。そしてやがて、「礼拝堂の建て替えの際に拡張用地とできるので、車を持っていない人にとっても隣接地取得は意味があるのではないか」という意見が出て、思わず膝を打ちました。そしてその線で推進するということで役員会主催の懇談会を開催しましょう、という話になったのです。

 ここで何が起きているかといえば、神様の御心である教会将来計画を、ある人は駐車場取得か教会移転のことだと解釈をした。ある人は車を持っていない現在の教会近辺の人に配慮をした教会将来計画でないと意味がないという解釈をした。ある人は今いる人の利便のためではなく将来来る人を受け入れられる教会将来計画でないと意味がないという解釈をした。ある人は、まだしばらくは持ちそうな礼拝堂に建て替えが必要になる時が来る、その時に拡張用地が確保されている必要がある、という形で教会将来計画の解釈を行いました。神様の御心は、何重にも解釈が可能です。証言が多様であるというのはそういうこと、良いことなのです。(だからこそ教会というものは教派に分かれているのです。)今日の箇所の前半でイエス様の業に対する解釈が分かれたのと同じように、私たちは互いに裁き合うことなく、自分の意見を「いい意見」だといって絶対化することなく、教会将来計画を神様からの問いかけであったとして受け入れて行った。

 

 教会将来計画というのは、聖書の言葉を使っていえばヴィジョン、幻です。幻という言葉で神様のご計画が言い表される理由は、私たちがこれこそ神様の御心としっかり掴んだつもりになっても、手の中を見たらつかんでいなくて空っぽである、ということです。幻だからあやふやなのだろうというわけではなく、むしろ私たちの五感では捉えきれないほどにしっかりしたものが幻と呼ばれていて、だからこそ時間をかけて、何人もの信仰者の意見をよく聞いて祈りを持って幻を受け止めねばならないということです。

私たちはなお幻をはっきりと捉えたというわけではありません。実際、隣接地を取得して、ブロック塀を取り壊してみたら、教会前が歩きやすくなって、通行人が幅広に教会敷地に入ってくる形で歩くようになった。教会が本当の意味で街の一角にある存在として受け入れられるようになったと感じます。幻は50年前に教会の先輩が隣のお宅に譲渡の申し入れをし、また反対側の隣にあった郵便局が伊東教会の土地を譲ってくれないかと申し出てきた時から始まっていて、幻の担い手が変わり幻自身が形を変えながら、なお時代に合わせて進化と発展を遂げています。私たちは教会総会において神様の御心を聞き、教会将来計画に示されている伝道の幻の2021年における形を皆で確認してまいりたいと思います。これが今日の箇所の前半から見出せる、教会総会に向けてのヒント、つまり証言の重要性と難しさに関する事柄です。

 

 *ちょっとだけ時事問題など

 2020年から2021年というのは、私たちの常識が大きく崩される時であることは言うまでもありません。昨年の4月の段階では、一年延期すればオリンピックをできるに違いないと誰もが思っていました。せっかく「いいこと」をするのだから、早くやれるに越したことはないと思っていたのです。しかし今の段階で今年のオリンピックの開催を「いいこと」だと思う人は市井にはほとんどいない。いるのは主催者側だけです。しかしその、中にいる人は、オリンピックの開催を「いいこと」だと捉えていない世論は、じきに変わると固く信じている。これほどに権力者と一般大衆との距離ができるというのが、今までの常識と違うところです。昨日の新聞では次のようなことが書かれていました。政府は511日に緊急事態宣言の解除をしてオリンピックへの地ならしをするつもりでいる。対策がどうやら本当に一通りしかないようだ。危機管理をする立場であればシナリオは複数あるのが当たり前で、一つしかないのは危険すぎる。

 私たちは、「幻」が実現していく筋道を、きちんと複数持っているでしょうか。もし筋道は一つしかないと思い込んでいるとすれば、それは何かが欠如している可能性があります。教会において複数の意見があるのは当たり前です。それを聞き合うことによって、自分の意見に深みを持たせることができます。説教だって複数の受け止め方があります。だからこそ受け止め方を聞き合うことによって、自分の受け止め方に深みを持たせることができるのです。

 

 *冒涜罪を犯した者への恵み

 さて今日の箇所の後半で、ペトロはご存知の通り、鶏が鳴くまでに三度イエス様のことを知らないと言い張ってしまいます。ここから教会総会に向けての第二のヒントを見出してみたいと思います。元々、私たちの教会の昨年度の主題聖句はルカ福音書の並行記事でした。ですからなんとしてでも今日お読みする聖書箇所を、前半の裁判、つまり大祭司の家の建物の中の場面だけでなく、後半のペトロの失敗、つまり家の中庭の場面についてまで含めて、長いですが読んで説教をする必要があると考えました。元々は週報の先週の予告にありました通り、今日は前半だけをやって来週は後半をやるということを考えましたが、教会総会に合わせて後半までやっておく必要があると考え直して、週末になって聖書箇所を広げたのです。

 しかしそうしながら気づいたのは、実は元々大祭司の家の建物の中での裁判の記事と中庭でのペトロの記事とは、一度に読んで説教をしなければならないほどに切り離すことができないのではないか、ということです。そのことに気づいたのは、イエス様が冒涜罪で死刑にされているのに、よく考えたら神様をはっきりと呪っている発言がない、これは冒涜罪としても成立しないのではないかと注解書から示唆を受けた時です。伝統的な解釈では、神様を呪う言葉を使っていないのに冒涜罪で告訴されているのは、要するに最高法院が杜撰な裁判をしているからだ、というものです。それは確かだと思います。しかしその前半の箇所、イエス様が裁かれている場面と後半の箇所、ペテロが主をいなんでいる場面とは、不思議な重なりがあることに気がつきました。イエス様もペトロも、人に取り囲まれています。どちらも責められ、なんらかの発言を人々から求められています。そしてもう一つ、ペトロが三回目に主を知らないという場面で、こう記録されているのです。74節です。「その時、ペトロは呪いの言葉さえ口にした」。ペトロは何を呪ったのでしょうか。(1)もし自分の「イエスという男を知らない」という証言が嘘であれば私は呪われてもいい、という意味で呪いの言葉を口にしたのでしょうか。それとも、(2)こんなに私が「知らない」と言っているのに信じようとしないあなた方は呪われたら良い、という意味で言ったのでしょうか。そうではなく、(3)イエス・キリストを呪った、のではないでしょうか。

 冒涜罪を犯したのは、私たちの道のりの先陣を行く信仰の先輩である、ペトロなのです。主イエス・キリストは、そのペトロの冒涜罪を身に背負うために、十字架におかかりになりました。ですから前半と後半は繋がっているのです。冒涜を犯していないお方が、冒涜を密かに犯している者のために十字架にかかる。これが十字架の恵みです。

 この後ペトロは激しく泣きます。その涙の意味は、イエス様に自分の行動をことごとく当てられたがゆえに悔しくて泣くというわけではないでしょう。自分が主を呪うことがあるということなど考えたこともなかったから恐ろしくなって泣いたのではないでしょうか。そしてそのような自分の一挙手一投足をあらかじめ言い表しご計画のうちにおいてくださったことを喜ぶために泣いたのではないでしょうか。

 これこそ、教会総会に出席するに当たって私たちが学ぶべき二つ目のポイントです。私たちにもまた浸るべき恵みが用意されている。私たちもまた、ペトロと同じように、主とは無関係であると言い張るだけでなく、主を呪うような生き方をしていて、しかしそのような生き方をすることをも先取ってくださっているお方が私たちを受け入れてくださる。そのことがなければ私たちは主の前に立つことはできません。主に従う恵みを覚えます。