主に在りて生く

2021/04/18 復活節第二主日 「主に在りて生く」 

ヨハネによる福音書10:11-16 エゼキエル書341112       牧師 上田文

 

 

韓国の友人が、イスラエルの羊飼いを見に旅行に行った時の話をしてくれました。羊というのは、身を守るためにいつも群れを成して生活するようです。また、羊はとても臆病な動物だそうです。群れを成しているのもそのためです。そして、臆病なので危険があると直ぐにパニックになるそうです。群れの中で一匹の羊がパニックになると、他の羊もパニックになり、一斉に逃げだすため、群れの管理は本当に大変なのだそうです。この友人が羊飼いの生活を体験した中でいちばん大変だったのは、突然降り始めるスコールのような雨であったと言います。雨が降ると、羊飼いは、洞窟に羊たちを避難させるそうです。洞窟の中は、人も羊もギュウギュウ詰めになります。そして、羊飼いは、その洞窟の入り口で、危険がないか見張りをします。羊飼いが見張りをしてくれているので、羊たちは安心して洞窟にいる事が出来ます。しかし、この洞窟の中での事は一生忘れられないと友人は言います。洞窟の中は、羊の熱気でムンムンになり、焼けた大地に雨が降るため、さらに湿度も上がり、その上羊たちはとても臭いのだそうです。友人は、羊飼いが「もう大丈夫だよ」「外にでて良いよ」と言ってくれるのをひたすら待った。そして、入り口から、羊飼いの声が聞こえた時は、本当に救われたような気がしたと言いました。そして、自分は気付かないうちに、羊飼いに守られる羊と同じになっていたと笑いながら教えてくれました。また、あの洞窟はまさに教会だとも話してくれました。つまり、人と人との距離が近く、熱気と臭さでとても中に留まっていられない、そのような中で、ひたすら羊飼いの声を聞こうとするのが教会だと、この友人は例えたのでした。

 

 羊飼いの声をひたすら待ち望み、聞き取ろうとする姿は、私たちの教会の姿のように思います。今日の聖句の一番初めには、「私は良い羊飼いである」と書かれています。羊飼いとは、イエスさまの事を指しています。何故良い羊飼いなのでしょうか。多くの奇跡の業により不治の病を治されたからでしょうか。それとも、困っている人を助けたからでしょうか。イエスさまが、私たちに良い事をしてくれるので、私たちがイエスさまを「良い羊飼い」と呼ぶのでしょうか。しかしそれでは、私たちにとって「都合のよい良い羊飼い」となってしまします。だからでしょうか、聖書はこの「わたしは良い羊飼いである」という言葉を「私はあるという者である」という言葉で説明をしています。聖書の原語にそって読むと「私は良い羊飼いである」という言葉は「私はあるという者である」「そのある者とは良い羊飼いである」と読む事ができます。つまり、誰かにとって良い又は悪い羊飼いであるというのではなくて、イエスさまが「私をおいて他に、良い羊飼いはいない」。私は、もともとから良い羊飼いとしてあるのだとおっしゃっている事になります。そのため、聖書には良い羊飼いと比べるための「悪い羊飼い」という言葉が出てきません。悪い羊飼いというのは、そもそも羊飼いではないというのです。12節には、「羊飼いではなく、雇い人」という言葉が出てきます。この雇い人が羊飼いではない理由が書かれています。「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」。羊が自分の物ではない雇い人は、狼が来て自分の身が危なくなると、なりふり構わず逃げてしまうのです。それは、羊の事を心にかけていないからであると言います。

 

イスラエルの人々は、彼らの歴史と生活を通して羊と羊飼いの事を良く知っていました。そして、自分たちのリーダをしばしば羊飼いに例える事がありました。自分たちは、その羊飼いに養われている羊であるということです。例えば、ダビデ王に対してイスラエルの人々はこのように言います。「主はあなたに仰せになります『我が民、イスラエルを牧するのはあなただ。あなたが、イスラエルの指導者になる』と」(サム下5章)。イスラエルの歴史には、ダビデのような良い王様が現れ、良い羊飼いとしてイスラエルを治めたのです。しかし、その反対もありました。エゼキエル書にはこのように書かれています。「主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない」(エゼ34章)。良い羊飼いではない、自分の事しか考えない盗人、雇い人のような王もいたという事です。 

 そして、遂に主なる神さまご自身が羊の群れを養ってくださる時が来るとエゼキエル書は続けます。エゼキエル書34章の11節以下には、「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを捜すように、わたしは自分の羊を探す」と書かれています。旧約聖書の時代が過ぎ、今を生きるわたしたちは、この牧者がイエスさまである事を知っていると思います。神さまが、私たちにイエスさまを与えてくださり、そのイエスさまが「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃってくださったのです。それは、良い羊飼いであるイエスさまが、教会に私たちを集め、養い、導き、守ってくださっているということです。雇い人は、羊のために命を捨てません。しかし、羊飼いであるイエスさまは、ご自分の命よりも私たちの命の方を大切にしてくださいました。私たちを本当にご自分の羊として養ってくださり、心にかけてくださいました。だから、私たちの命の代わりに御自分の命を捨てられ十字架に架かってくださったのでした。そのことが、14節にある「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしたちを知っている」という事です。イエスさまは、私たちの事を心にかけてくださるので、私たちの事を良く知ってくださっているという事です。

 

逆に言えば、心にかけてなければ、知る事は出来ないとも言えます。

例えば、子どもが家に帰って来た時のことを思い出すと良いかもしれません。子どもは「ただいま!」と家に帰ってきます。この「ただいま」の声を聞いて、親は子どもが家に帰って来た事だけを知るでしょうか。もし、子どもに心をかけていなかったら、帰って来たという事実だけを知る事しか出来ないでしょう。しかし、親は子どもの声の調子や、表情や仕草などから、今日は何があったのかを想像するように思います。今日は楽しい一日であったのか、それとも困った事が起こったのか色々なことを感じ取ろうとします。そして、その子どもにとって一番良い事をしてあげようとすると思います。これが心にかける事によって知るという事です。子どもも同じです。親の「おかえり」という声を聞きながら色々な事を感じ取ろうとします。我が家の娘は、声だけでなく臭いでも感じ取ろうとします。娘が帰って来るまでに夕ご飯を準備した時は、玄関で美味しいにおいがすると言います。ママの服からいい匂いがした時は、自分を置いて美味しい物を食べて来たのかを確認します。心にかけている。お互いに「良く知っている」というのは、そういう事なのです。言葉や声の中にどういう思いが込められているのかを知る事が出来る。「知ること」というのは、「愛すること」と言い代える事が出来るように思います。

「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」という言葉は、このような互いに心にかけ、愛し合う関係の事を示していると言えます。この関係を、「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」とイエスさまはおっしゃいます。イエスさまが、わたしたち羊と神さまを結び付ける絆となってくださり、神さまと私たちの間に立ってくださいます。つまり、親が「ただいま」といって帰ってきた子どもに気をかけるように、神さまが独り子であるイエスさまを退けかえりみなくなることはあり得ない。それと同じようにイエスさまは、私たちを退けかえりみなくなることはあり得ないと言ってくださいます。ですから、イエスさまは、羊もイエスさまを知ると言われます。「おかえり」と言ってくれる親を子が自然と心にかけるようになるように、私たちはイエスさまを知ると言われるのです。イエスさまは、私たちを心にかけ、愛してくださり、私たちを罪から救い出す為に、父である神さまから受けた全ての力を用いて、神さまに従われ十字架に架かかられました。このイエスさまの愛を与えられる時、私たちはイエスさまを自らの救い主であると知り、愛し、心にかけ、子が親に全てを委ねるように、イエスさまに全てを捧げ、身を委ねます。つまり信頼し信仰します。イエスさまは、このことを「羊も私を知っている」という言葉によって表されました。

 

 この事を知る時、「わたしは良い羊飼いである」というイエスさまの言葉は、イエスさまは私たちにとって「都合の良い羊飼いである」という事ではないという事を改めて確認されるように思います。イエスさまが、他にはないただ一人の良い羊飼いとしていてくださるので、私たちは羊が羊飼いを知るように、イエスさまを知るようになります。イエスさまを愛するようなります。イエスさまを愛する者とされていきます。

 そのため、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われるイエスさまの愛は、教会に集められた私たちを超えて広く多くの人にも注がれます。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」とイエスさまは言われます。羊の囲いというと、木の柵のようなものを思い起こしますが、この囲いは洞窟や屋敷といった壁のある囲いの事です。聖書では、この囲いを神殿や教会を表す言葉として使われることもあります。洞窟というと、説教の冒頭で話した、大雨の中で羊飼いに洞窟まで導かれた羊の話を思い出します。どのような危険な状況であっても、羊飼いは羊を守るのです。私たちすべての羊のことを、心にかけ命をかけて洞窟という安全な場所に非難させようとされるのです。この洞窟は教会です。ヨハネによる福音書316節には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。イエスさまは、羊たちが一人も滅びないで、永遠の命を得させるために、この洞窟に羊を導かれるのです。この事は、私たちが祈りに覚えているあの人、この人をイエスさまが必ず教会に集めてくださるという希望の約束です。また、救いの知らせに反発したり、攻撃したり、無視したりする人をもイエスさまが導いて自分の羊としてくださるという事でもあります。

イエスさまはいつか全ての羊を愛の恵みによって、この洞窟に導かれます。この恵みの中を、洞窟に集められた私たちは生きているのです。

 説教の冒頭で、羊がひしめき合う洞窟の中は、その臭いと熱気で蒸し返され、留まっていられないという話をしました。そして、洞窟に集められた私たち羊は、そのぎゅうぎゅう詰めの、人と人との距離が近い空間の中で、突然に訪れた羊を警戒したり、またあの羊とは付き合いたくない、気が合わないと言って、時には人を遠ざけ、時にはパニックになったりします。このような、互いの距離が近く、臭い洞窟には留まっていられないと思う事があるかもしれません。しかし、自分は良い羊飼の羊である事を知るとき、私たちはこの羊飼いを愛し、羊飼いが心にかける羊を羊同士で愛し合う事が出来るようにされます。羊が洞窟に詰め込まれるのは、互いに愛し合うためとも言えるかもしれません。なぜなら、羊飼いは羊のことを知っていて、羊に必要な糧を与えてくださるからです。

 

羊に必要な糧とは、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」という信頼関係です。私たちは、「わたしは羊のために命を捨てる」と、十字架の死によって私たちに真の愛を注いでくださった、この愛を受けイエスさまに従い、イエスさまに真に養われる羊にされています。この羊飼いと羊の営みが信仰の歩みです。その歩みの中で、イエスさまはいつもわたしたちに必要な糧を与えてくださいます。そして、そのたびに私たちは、イエスさまと隣人との関係が深められます。洞窟は、蒸しかえった熱気が留まる所ではありません。いつも、いきいき新しい愛に満ちた交わりがある所です。素晴らしい恵みに満ちた所となります。そして、いつの日か、その恵みは洞窟の外にまで満ち溢れ、全ての人が、一人も滅びないで永遠の命を得る時が来るのです。イエスさまは、この事を望んでおられます。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」この事自体が恵みであり、この事自体が教会であり、この教会という洞窟によって表されているとも言えるでしょう。「わたしは良い羊飼いである」と言われ、「あなたは良い羊飼いの羊である」「あなたはわたしのものである」と言ってくださる。このイエスさまの恵みに応え続けたいと願います。