剣を取る者は剣によって滅びる

2021/04/11 復活節第一主日 剣を取る者は剣によって滅びる マタイ第129回 26:47〜56                      牧師 上田彰

 *愛と憎しみの狭間で

 一人の南米チリの詩人が、幾らかの想像を含めて今日の直前のところから始まっている「ゲッセマネの祈り」の状況を詩に歌っています。詩人の想像によれば、イエス様が祈っておられる間、そこから少しだけ離れたところにペトロを含む3人の弟子がおり、さらに離れて残りの弟子が控えていたわけですが、そして過越の食事の後のある時点でイスカリオテのユダは大祭司の家に移動して裏切りに協力するわけですが、移動のタイミングは食事の最中ではなく、ゲッセマネの祈りにまで他の弟子と一緒について来ていたのではないか、そして他の八人の弟子たちと一緒に行動していたのではないかと想像します。では八人の弟子たち、いえ結局はペトロたちも同じなのですが、他の十一人の弟子たちと一緒になって、イスカリオテのユダは ゲッセマネまでついて来て何をしていたのかといえば、「眠っていたのではないか」、というのです。

 なぜわざわざユダの眠りについて詩で歌うのかといえば、次の言葉を言いたいがために他なりません。「ユダはイエスの夢を見る。なぜなら、人が夢に見るのは愛している者たちか、あるいは殺したい者だけなのだから」。

 かねてからユダは主イエスの夢を見てきました。見続けてきました。彼の心の中にイエス・キリストへの熱い思いがあり、その熱さゆえに思い悩んできました。彼の心を占めているのは、純粋な憎しみではありません。純粋な愛情というわけでもないでしょう。殺したいほどの憎しみと、接吻をするほどの愛情、それらがないまぜになっているのです。憎しみと愛情、それらは鳥の翼がそれぞれ真反対に、片方が右を、もう片方が左を指し示しているのに、しばしばその2枚の翼が重ね合わさっている、つまり両翼あい接す、というのと同じように、詩人の言葉を借りるまでもなく、背中合わせの関係にあるのです。

 愛と憎しみを同じ相手に向けて持つということは、決して珍しいことではないように思います。相手に対する強い関心が、時にひねくれてしまうということは男女の間柄でも、親子の間柄でも、師弟の間柄でも起こり得ます。そしてこのイスカリオテのユダの場合、人間と神様との間でも、ねじ曲がった熱い感情が生まれてしまうことを示しています。神を愛し、同時に神を憎む。あるいは神を愛そうとして愛せないがゆえに、夢に見るほどに憎むようになる。

 

 *「力」への憧れ

 なぜユダは、愛し、そして同時に憎むお方として主イエスのことを最後の夢見で思い浮かべるようになったのでしょうか。神を愛しながら神を憎むという、普通に考えれば矛盾した心持ちについて触れると、まるでユダが私たちとは全く異質で別次元の変わった人物であるかのように誤解してしまうことがあります。しかし、実際にはユダは私たちの引き写しでもあるはずです。私たちの心の中にもユダがいる。そのいきさつについて考える際に、「剣」への憧れという、人間の拭い去りがたい欲求を、無視することはできません。

 イエス様ご自身、剣の権威というものがご自分にあることを今日の箇所でおっしゃっています。剣一振りどころか、12軍団の天使の軍勢を動員する力を持っておられるというのです。しかし天使の力によって敵を薙ぎ倒すということをなさいませんでした。もしその力があれば、イエス様を取り囲む者たちばかりでなく、ローマの軍勢をも蹴散らすことができるに違いありません。そういうことを主イエスの周りの者たちは期待していました。

 主イエスの周りの者たちは皆、剣の権威というものを求めているように思われるくらいです。剣の権威といえば、当時は強大な軍事力を持ったローマ帝国のことを誰もが真っ先に思いつきました。ローマ帝国は多くの民族を服従させ、ユダヤ民族もまた例外ではありませんでした。彼らが当時使っていたお金、貨幣には皇帝の銘が刻まれていました。そのお金によってローマ帝国に納税を行う義務は、例えユダヤ人といえども免れることはできなかったのです。納税の義務がないことを確認するために立ち上がったユダヤ人の同胞もいましたが、武力によって退けられていたのです。主イエスの弟子たちの中には、この暴力革命に賛成する熱心党のメンバーもいました。武装闘争には表立って賛成してはいないものの、ファリサイ派の人たちも事情は同じです。彼らは、ひとかたならず主イエスに興味を示しました。主イエスがエルサレムの神殿に来たときに、納税の義務は信仰者にも適用されるのかということがわざわざ論争のテーマになっているのも、偶然ではありません。当時の政治状況からして、軍事力を持ったローマ帝国に正面から抵抗することは簡単ではありませんでした。しかしそれなら、心の中で神様を信じていればいいのか。信仰を心の中の出来事に押し込める考え方に反対をしたファリサイ派の人たちは多くの人々の心を掴み始めていました。そのファリサイ派がイエス様に興味を示したというのは、このお方を中心にローマを打ち倒す一大運動が起こるのではないか、そういう期待をしていたのです。このお方がまことに神の子であれば、天使の軍団を動員するぐらいはわけなくできるだろう、そうすればユダヤ人全体がローマ帝国打破のために、立ち上がることになる。自分たちファリサイ派はその運動の中心的な位置を占めることができる…。そのような期待からイエス様に近づいたファリサイ派は、その期待を打ち砕かれました。イエス様が律法主義とは相いれなかったとか、そういう話ではありません。むしろファリサイ派は最初の時点で気づいてしまったのです。このお方が、「剣を取る者は皆剣によって滅びる」という考えをお持ちの方で、ファリサイ派は自分たちの心の中に剣の権威への憧れを持っていることを自覚していたので、その剣の権威への憧れを指摘されたときに、自分のプライドが壊されていくことに気が付いてしまったからです。ファリサイ派がイエス様を十字架にかけようとする理由は一つだけです。すべてのプライドを捨ててしまうというイエス様の生き方を、心底憎いと思ったからです。ファリサイ派が、その最も宗教的に鋭敏な感覚でもって、イエス様の本質が自分たちの本質と相いれないということに気づいたのは、さすがだと言わざるをえません。イエス様が剣の権威を振りかざしてくれさえすれば、彼らはイエス様と一緒になれるのです。イエス様が本来はお持ちの剣の権威を、ファリサイ派は求めてやみませんでした。イエス様を愛することのなかったファリサイ派は、イエス様がお持ちの剣の権威を愛し続けたといってもいいかも知れません。

 そしてイスカリオテのユダです。彼もまた、ゲッセマネで最後に見た夢の中で、軍団を派遣する主イエスのお姿を夢見ていたのかもしれません。しかし夢から覚めたユダは、イエス様がそのような軍勢を決して地上にお呼びになる事はないという現実に、気づいてしまいました。そしてイエス様に対する最後の憧れを捨てて、イエス様を憎むことにしました。主を愛するのではなく、自分が主のお持ちのはずの力に憧れていることに気づいてしまった一人の人は、一人大祭司の家に急ぐしかなくなってしまったのです。

 その後の次第はこうです。ユダは、大祭司の家におけるイエス逮捕の話し合いに参加しました。そこには祭司長や律法学者たち、主イエスを憎く思っている者たちが集まっていました。しかし彼らが直接主イエスの逮捕におもむけば、目立ちすぎます。そこで手下の者を使うことにしました。彼らは主イエスの姿をよく知りません。話に聞いているという程度で、論戦を戦わせたわけでもなく、顔見知りではないのです。そこでユダが申し出ます。私が接吻するのがその人だ、それを捕まえれば良い。まだ日が上っていない時間帯ですから、誰が捕まえたい相手かがわからないと困る。例えば指差すというのだと間違えてしまう可能性がある。そこで、捕まえるべき相手を確実に示す間違いのないやり方が接吻だとユダは考えたのです。そして言うのです。接吻した相手を捕まえろ。ユダは覚悟を決めているのです。接吻をもって裏切る。最も繊細な愛情表現を憎しみのために用いることを決めたのです。

 

 *ゲッセマネでの祈りに立ち戻る

 この悲壮な覚悟を決めてしまった人のために主は祈りました。まさにユダが最後に主イエスの夢を見ていたあのゲッセマネにおいて、主はこう祈られたのです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。死の運命を受け入れるかどうか、主は迷っておられます。死が、愛する弟子の裏切りによってもたらされるという皮肉な運命を受け入れなければならないのかどうか、主は迷っておられるのです。主にとって、武器で襲ってくる敵にどう立ち向かえばいいかということは、もうすでに解決済みのことでした。実際この後、主イエスを捕まえにくる者たちは剣や棒を持ってやってきましたが、動揺している様子は全くありません。しかし、接吻をもって裏切ろうとする弟子の振る舞いには、動揺するのです。武器を持って捕まえにきた者たちのために主が祈った様子はありません。しかし接吻をもって捕まえに来た者のために主は祈りました。三度祈り、夜を徹して祈り、生涯かけて祈りました。ユダと、ユダに連なるすべてのイエス様を愛そうとしてイエス様がお持ちの力の方に憧れてしまったすべてのもの達のために主は祈りました。三年間の宣教のご生涯の始まりのときに、悪魔から荒野で誘惑を受けたイエス様は、石をパンに変えることなく、高所から飛び降りて不死身であることを示すのでもなく、世界を支配する誘惑に屈することもありませんでした。

 その結果訪れる運命のことを、ゲッセマネの祈りの中では「取り除けて欲しい杯」とイエス様がおっしゃっています。力への憧れがファリサイ派によって、ユダによって自分の身へと迫ってくるときに、やがてその憧れが憎しみへと変わり、ご自分を取り囲み、討ち滅ぼしてしまうことにイエス様は気づいておられたのです。イエス様はそれでも天使軍団の助けを借りてご自分の身を守るのではなく、剣の権威への憧れを捨て切れない人間達にご自身の全てを委ねてしまわれます。

 

 *剣の権威、その現代的な意味

 なぜ剣と棒を持っている者のために祈らなかったのかどうか、本当のところは分かりません。しかし武器を携えてやってきた者たちに対してはきっぱりした調子で主は叱っておられますが、ユダに対しては強い調子で向かってはいません。武器をもってご自分に立ち向かわれる者に対して、主は毅然とした態度をお取りになりますが、愛と期待が入り混じった憎しみをもって立ち向かわれる者に対して、柔らかく受け止めようとなさる。見える剣よりももっと尖った刃を懐に携えたユダのような者を、受け止めてくださる。

まずは私たちは、武装するための剣を収めることから始めなければなりません。考えてみると、私たちは信仰生活の中に剣を持ち込むことがなお多いように思います。祈りにはそもそも馴染まないものを信仰生活へと持ち込んでいます。宗教改革の時期のジュネーブの改革者であったジャン・カルヴァンは、教会の役員会が行われる部屋に、武器を持って入ることを禁じました。今でいえば当たり前と思うかもしれません。しかし役員の中には貴族もいました。彼らが普段身につけていたサーベルを部屋の外に置くことを求めることは、役員会が祈りの部屋でなされることを意識させるものでした。武器というのは、祈りを排除するすべてのものを指します。例えば物事を決めるときに、何かの権威に頼れば、それは武器に頼ったことになります。何かの権威を、剣のように振りかざすことがあれば、それは滅びの道に入ったことになります。私たちはしばしば教会会議を行う際に、キリスト以外の権威を持ち出すことがあることに反省させられます。やれ国家が言っている、やれ世間が言っている、やれ時代が言っている…。色々なものの声を聞かなければならなくなって、身を削られる思いになってしまうことさえあるかもしれません。しかし、聞かなければならないことはただ一つだ、という思いを持って、剣の権威を排除していった時に、真の神様の声が聞こえてきます。

そのようにして私たちが自分を武装するための剣をさやに収めたとして、それでもなお尖り続けているのが、ユダが最後まで持ち続けた、内なる刃です。普通は力への憧れが人を傷つけるとは考えません。ですから一番最後まで捨てないものでもあります。しかし主イエスは、なんの殺傷能力も持たないはずの、ご自分への天使軍団を派遣して欲しいという単なる期待のゆえに、ご自分が十字架にかかられる杯を避けることができないことを受け入れられました。

私たちは主イエスを逮捕するためにオリーブ山のゲッセマネに来た、武器を携えた人々の一人でしょうか。確かに私たちはまだ他人に分かりやすいプライドをかざし続けているかも知れません。それともユダのように、すべての武器を捨てて、ただ接吻によって主に近づく、穏健な内なる力への内なる憧れだけ持って主イエスを夢見る者でしょうか。そのいずれであっても、主が十字架の際まで愛して下さり、受け止めて下さる。私たちはそのことによって生かされています。