死が死を迎えた朝

復活祭主日聖餐礼拝 説教 死が死を迎えた朝 

                                               マタイ説教第128回 28:1- 牧師 上田彰

 *人を生かす言葉、殺す言葉

 真に、真に、主はよみがえられた!

 イースターの日の朝、信仰者たちが互いに交わし合う挨拶です。私たちは、言葉によって命の道へとたどりつくすべを知っています。喜びの言葉を交わすことによって、喜びを分かち合うことができます。ただの喜びではありません。もしそうであれば、言葉を使わないで分かち合うということもできるに違いありません。しかしここでいう喜びとは、救いの喜びです。み国に共に与るという喜びです。み国の出来事である以上、救いの喜びを指し示す言葉を共有しない限り、喜びを分かち合うことはできません。ですから、共に挨拶を交わして喜びを分かち合うのです。救いの現実が、言葉によって示されることを私たちは知っています。

 真に、真に、主はよみがえられた!

 

 これとは反対に、人を殺す言葉というものもあります。殺すといえば、悪口などを思い浮かべることでしょう。しかし端的に悪意のある言葉というだけでなく、喧嘩言葉でありながら、「ああ、これはうまく言っているなあ」と感心してしまう、上手い言葉というものがあります。先ほど思い出した言葉ですが、「それは安全地点からの物の言い方だ」というのを考えつきました。ちょっとした喧嘩というか、この世の現実を指し示す言葉です。この言葉を使えば、自分の心の中にあるもやもやした現実をスッキリさせられる。先ほどのような、み国の現実を示す、生かす言葉とまでは言えません。しかし、世の現実をよりはっきりと示す言葉というものにも心当たりがあります。

 この3年ほどの間に急速に広まり、それ以前には世間で口にすることも耳にすることもほとんどなかった言葉に、「忖度」というものがあります。昨日もたまたまた役員会でこの言葉を使うことがありました。それ以前にも、似たような言葉があるにはありました。例えば「同調圧力」という言葉がそうです。世間の波に合わせないといけない。空気を読まないといけない。そういう意味合いですが、どこかに「自分は嫌だけど無理矢理そうさせられる」という意味合いがあったのです。ところが、「忖度」というのは目上の人、世間の雰囲気に半分以上は自ら合わせていくことによって起こります。

 現代の国会の様子を見る時に、この言葉は欠かすことができなくなりました。証人として呼ばれて出てくる官僚たちが、皆揃いも揃って上司である政治家たちに都合の良いように記憶を失い、法律の解釈を捻じ曲げ、すでになした報告書を破棄したことにしてしまう。うまく芝居をやり抜けた官僚は後日出世します。

 もともと「忖度」という言葉を世に広めたのは、ある小学校の理事長の説明がきっかけでした。自分自身が元首相の名前を冠した学校を建てたいと計画した。その際に行政に対して便宜を図るよう持ちかけた。行政は賄賂をもらったわけではないのですが、当時の首相が関わっている案件であればないがしろにはできないと行って「忖度」を行い、それによって便宜は図られます。ところがそのことがばれて、しかも頼みの綱であった元首相側からは梯子を外されてしまう。裏切られたことに気づいた理事長は、やけになって夫婦で元首相とその仲間たちの手口をマスコミ相手に告白、告発してしまうという事態がきっかけでした。手口を明かす中で、「忖度」という言葉を用いたことが報じられ、今では知らない人がいないというような言葉になりました。その言葉が広まる以前にも当然起こっていた事態が、誰の目にも可視化し、見えるようになった。これは言葉の力です。同調圧力という言葉だけでは到底広まらなかった事態の認識が、広まるようになった。この言葉が知られていなければ、政治家と一部の官僚の蜜月関係はもっと続いていたでしょう。オリンピックだって、一部のマスコミは反対し続けるにせよ、もっと盛り上がっていたに違いありません。

 「殺す言葉」というのは、言い過ぎかもしれません。「真実を言い当てる言葉」です。ただし残念ながら、その真実が人を生かすとは限りません。おそらく真実を言い当てる言葉の中にも、世の現実を示すだけの言葉と、救いを示すための言葉があるのだと思います。「忖度」は世の現実を示すのにとどまり、「真に主はよみがえられた」は救いの現実を示す言葉です。

 

 *復活をめぐる出来事

 主イエスは金曜に、叫びの声をあげながら最後の息を吐き切りました。主は墓に葬られて、三日目の朝を迎えようとしています。当時の医学水準では、死んだと思った人が息を吹き返すということがよくあったのです。そこで、三日死んだ状態であったら、死んだことにしようということになっていました。三日というのは実質的には最短で25時間です。死んで次の日、二日目と当時は数え流ものでしたが、二日目の丸一日24時間にかけて死んだ状態であれば死んだと言い切って良い。権威を持って、イエスは亡くなった、と宣言される。イエス様が十字架にかかっても生き続けるのでは無いかというわずかな希望が完全に打ち砕かれた状態で迎えたのが日曜の朝だ、ということになります。

 

 この日、二人の女性が墓へと向かいます。おそらくその前々日には、安息日にかかって葬りをすることができないためにあわただしく仮の葬りのみがなされた状態だったので、改めてきちんと葬りたいと、手には亜麻布と香油を持って墓に向かったのでしょう。

 墓に近づいたときに、大きな揺れを感じます。それは天使がやってきて墓に蓋をしていた大きな石を動かすときの揺れであったといいます。石の上に腰掛ける天使のところに近づいた女性たちに、天使は墓の中が空っぽであることを指し示しながら、こう告げます。「主はよみがえられた。このことを弟子たちに伝えなさい」。これが、復活を巡る信仰の核心です。その後女性たちは、そして弟子たちはよみがえった主イエス・キリストと実際に出会うのですが、この出会ったという言い伝えとは別に、すでに墓が空っぽであったという言い伝えそのものが、つまり先ほどお読みした聖書箇所そのものが、復活を信じるのに十分な根拠となると教会は信じて参りました。

 三日たって息を吹き返さなければ人は死んだものとされる。このお方が死んだということは権威によってすでに確認済みでした。しかしその権威を打ち砕くようにして、主は墓から出ておいでになる。ある人は、復活とは墓の粉砕だと言いました。粉砕されるのは墓の中には死体があり、死体がよみがえることはないという、常識とか権威です。神は、主をよみがえらせることによって、死を葬った。

 

 *番兵たちの視線--破れを抱えた時代

 この、やがて粉砕され、空っぽになってしまう墓に対して、二日前の、葬られた金曜の夕方に向けられた二つの視線があります。

 まずは墓に目を向けていた番兵を取り上げます。

 もともと、墓が反対者たち、つまりイエス様の弟子とその仲間によってあばかれて、死体が盗まれはしないかということを言い出したのはユダヤ人、つまり律法学者や祭司長たちでした。それで総督に申し出て、番をする兵士をローマ帝国から派遣してほしいと願い出たのです。しかし総督はこの願いを断り、自分たちでお金を払って人を雇いなさいと言ったのでした。

 ところが、彼らは全くの役立たずでした。天使たちが大きな地震とともに現れたときに、番兵たちは恐ろしさのあまり死人のようになってしまった、というのです。そして彼らは、エルサレムに急ぎました。次に取り上げる、女性たちよりも先にエルサレムの都にたどり着くことに躍起になりました。なんとしてでも、この監視失敗という事態を、自分たちの上司にいち早く報告しなければならないと考えていたからです。今でいえば報告・連絡・相談というのは「ホウレンソウ」と省略されて、上司に忠実な部下の振る舞いであるとされています。

 この部下に対して、上司である祭司長や律法学者はどう対応したのでしょうか。彼らは、自分たちがお金を払って雇ったにもかかわらずその役割を一切果たさなかった番兵たちを叱るどころか、さらにお金を払い、そして何かあれば君たちを守るからとまで約束をします。一体何が条件かといえば、今風に言えば「忖度」をすることを示唆するのです。つまり、墓が空であるのは、イエスの弟子たちが夜中に死体を盗んだからだと言いふらせば、ささやかな褒美と自由を保証するというわけです。それはつまり、番兵たちに、自分たちは墓を見張る役割を命じられたが一切墓を見張ることなく過ごしていました、その結果最初の懸念通り盗人が墓に入ってしまいました、という職務怠慢の告白をすれば、お金がもらえて身の安全が保証されるというわけです。そして実際に番兵たちは厚顔にもその通りにするのです。

 2000年前にエルサレムで「忖度」を行った番兵たちが町中で広めたのは次のような話だったのではないでしょうか。「いやー、ひどい話だ。イエスを納めた墓が荒らされた。私たちが番をしていたのだが、まさか祭司長様が懸念なさっていた通りになった。夜中に死体を盗みにくるなんて大胆千万。まんまといっぱい食わされてしまった。確かに墓の番をしたのは私たちだが、うっかり盗まれてしまった」とか、もっと官僚的な番兵ならこう言うかもしれません。「盗まれたのは私たちの不徳の致すところだが、ここは盗んだ弟子たちの方が悪いのであって私たちを非難するのは当たらない」。現代においても起こっている権力の癒着と、自己保身のための情報合戦が、2000年前にも起こっていました。政治の世界で癒着が起こっているのは、今に始まったことではないことに気付かされます。

 この癒着の行き着く先はなんでしょうか。それは番兵たちの身に起こったことを見ればわかることでしょう。墓の前で天使が現れたときに、彼らは死人のようになってしまった。権力者につながることでなんとか生き延びようとする者たちは、天使が現れることによって恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになってしまう。そしてその死人のような形相でエルサレムの街へと駆け戻り、上司に次の指示を仰いでなんとか生き延びようとする。死んだも同然の状態でなお生き延びようとする。真の命から視線を背け続けてでもなんとか生き続けることができると考えている。生き延びるとは世間の様子に合わせることだと思い込んでいる者たちが、墓の前で、天使を目にして自分の死を実感し、しかしなお生き続けています。そのような様子を現代に当てはめる時に、政治家や官僚の姿にだけ当てはめるのでは十分ではありません。実はどんな人でも大なり小なり、「死んでいるのに生きているかのように」振る舞っているのではないでしょうか。

 

 *墓を見つめる女性たちの視点

 そこで、天使の到来によって真に生きる者とされた人たちにも目を向けましょう。イエス様がまだ墓に収められた状態だった金曜日に話を戻してみたいと思います。墓を見つめるのはイエス様に反対していた者たちばかりではありません。弟子たちはすでに逃げ散った後でしたが、イエス様や弟子たちの身の回りの世話をしていた女性たちは、イエス様が十字架にかかり葬られる様子を比較的間近で見続けていました。二人のマリアという名前を持つ女性、今日の箇所の冒頭に出てくる女性たちが、少し前のところから視線をイエス様に送り続けています。

 二人のマリアが墓に向けている視線から、一体何を見出すことができるでしょうか。自分が仕えていた主が死んでしまった。自分が支えていた主と弟子たちのグループは解散してしまった。生きがいを失い、また頼りにするものを失ってしまった。頼りにするものを失ってしまった。この時彼女たちの胸を支配していたのは、空っぽという感情でした。日曜日の朝、彼女たちに与えられるものはなんでしょうか。空っぽである彼女たちの胸に注ぎ込まれるものは一体何なのでしょうか。

 突然現れた天使たちを前にして、一方では喜びの感情が、そして他方ではその神々しい姿を見て恐れる感情が生まれてきました。喜びと恐れのないまぜになった感情をどう処理して良いかわからない二人に対して、天使は次のように告げます。「主は復活した、そのことを弟子たちに伝えなさい」。この救いの言葉によって、もやもやしたあらゆる気持ち、あえて言えば空っぽとしか言いようがない気持ちが、整理された。そして救いに与ることができた。

 「忖度」という言葉を世に広めてくれた籠池という元小学校理事長に、私個人としては感謝をしたいと思っています。この言葉によって今の政治の実態が可視化したからです。しかし可視化して、つまり見えるようになって見えてきた現実というのは、あくまで政治権力の癒着構造です。知ったからといって真の命に与ることができるわけではありません。しかし女性たちに天使がかける言葉は、その言葉によって可視化してくる、見えてくる現実があるのです。その現実は、人を生かす現実です。

 今日の聖書箇所で、イエス様がよみがえったという信仰に生きるのに十分な言い伝えが含まれている、そう教会は考え続けて参りました。墓が空であった、これが世界を生かす復活信仰の核心なのです。そして空の墓を示しながら天使が言葉を告げる。この言葉によって、墓が空っぽであったという事態の意味が見えてくる、可視化するのです。天使の言葉が無ければ、墓は空っぽだった、よみがえったのかもしれないし盗まれたのかもしれない、どちらであるかはその人次第ということになってしまいます。しかし天使から、「よみがえったのは間違い無いから、そのことを告げ広めなさい」と言われ、彼女たちは番兵たちとは違う事実を告げ広めるようになります。

 

 *喜びながら生きる

 注目することができるのは、天使の告知は、「主は復活した」ということにとどまらず、「このことを伝えなさい」という命令と組み合わさっている、ということです。復活とは、喜びながら伝えることによってその意味を実感する類のものです。ですから、救いを示す言葉が挨拶の形を取るのでしょう。

 天使から女性たちへ伝えられた「復活の知らせ、喜びの挨拶」は次いで弟子たちに伝えられました。逃げ惑っていた弟子たちは、その後主の復活を証するものと変わっていきました。そして主の復活を伝える者となりました。彼らを通じて「復活の喜びの言葉」は私たちに伝えられました。私たちは互いに次の言葉を交わすことによって、今日も喜びを分かち合うことができます。

 真に、真に、主はよみがえられた!