信仰がなくならないように祈った

2021/03/28() 棕櫚の主日(受難節第六主日)礼拝 

「信仰がなくならないように祈った」マタイ127回 263136                                                                                              牧師 上田彰

 

 *自分の目の中の丸太

 イエス様は山の上での説教の際に、次のようにおっしゃいました。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」(734

 イエス様の言葉は、時代を超えてどこの誰に対しても当てはまる真理であるという側面が確かにあります。このイエス様の言葉なども、どこかのことわざ集に入っていたとしても不思議のない言葉です。つまり、他人の欠点は気づきやすいが、自分の欠点はなかなか気づかない。逆に言えば、他人の欠点に一つ気づいたときには、自分の欠点に二つか三つ気づくぐらいが、ちょうど良い…そんなことわざとして取ることも出来ます。

 しかしイエス様の言葉を、単にありがたいことわざとして受け止めるだけでは本当の意味で聖書を読んだことにはなりません。今日は受難節の最後の日曜日、受難週へと入っていく日です。主がかかられた十字架について思わざるを得ません。

 私たちは、主が十字架にかかられたのは、人類の罪の故であると頭では理解しています。しかししばしば、それは誰か社会の中に不行き届き者がいて、その人が犯した罪によってイエス様が大層なことに十字架にかかった、そのくらいに考えてしまうことがあります。確かに悪い政治家や官僚が、国民に仕えることをせずに私腹を肥やすのに精を出しているかも知れません。人権を侵害する企業もあることでしょう。しかし主が十字架にかかられたのは、政治家や官僚や大企業の経営者のためばかりではありません。イエス様がおかかりになった十字架において、言ってみればおがくず程度の意味しかありません。先ほどの聖句は、イエス様が十字架におかかりになったのが、自分の目の中にある丸太の故であることを言い表しています。イエス様が私の目の中から丸太を引き抜いて下さって、ゴルゴタの丘に突き刺して、ご自分がかかる十字架として下さった。それに比べれば他人のおがくずなど、十字架の材料にもなりはしません。

 今日の箇所に出て参ります弟子たちの姿、とりわけペトロの姿は、ある意味で滑稽です。しかしその滑稽な姿とは、自分自身の姿でもある、そのような思いを持って今日の箇所を読んで参りたいと思います。

 

 *主イエスは約束をしている

 今日の出来事は、オリーブ山に向かう途中のイエス様と弟子たちとのやりとり、そしてオリーブ山のゲッセマネという場所におけるやりとりという、二つの場面に分かれています。彼らは地上での最後の晩餐をもってから、皆でオリーブ山に向かいました。恐らく向かった中にはイスカリオテのユダも含まれていました。ヨハネ福音書では、ユダが裏切りのために大祭司の家に向かうのは晩餐の最中であったと書かれていますが、他の福音書では、恐らく今日の前半のやりとり、つまり弟子たちが最後までイエス様に従うと誓う、決意表明の道中にはユダも加わっていたと見ています。つまりイスカリオテのユダもまた、私も主の側(がわ)につくと皆と一緒に誓っていました。

 イスカリオテのユダには恐らく計算がありました。彼なりの筋書きが頭の中にあって、その筋書き通りであれば自分はイエス様を裏切るために祭司長や律法学者たちと通じているのではない、ただイエス様に活躍の場を与えるために裏切るのだ、そんな計算を行って、そして自分はイエス様の味方をするために裏切るのだ、という本来は矛盾している思いで頭の中を一杯にすることにしました。そして他の弟子たちとともに、こう誓ったのです。私も主の側につく、と。

 この滑稽で矛盾した一人の自称弟子については先日の説教で取り扱いました。福音書を読むと気がつかされるのが、イスカリオテのユダと自分たちとを重ね合わせるよりはむしろ、ペトロの中に自分たちの姿を見出そうという、マタイ教会の強い思いです。オリーブ山に向かう主と弟子たちとの姿を描く際に、ユダに焦点を当てるのではなく、一番弟子であったペトロに焦点を当てます。

 ペトロはこれまでに、何度も福音書で描かれています。湖の上を歩いているイエス様を見てペトロは私にも行かせて下さいといい、数歩水面を歩くのですが怖くなって沈んでしまう。イエス様はペトロを手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃる。そんなおっちょこちょいのペトロの姿が福音書で何度も描かれていますが、その中の一つにこういう場面があります。イエス様はキリストであるとペトロが告白した直後のやりとりです。

 イエス様とペトロとの間でのやりとりを思い出してみます。

《イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」》(マタイ16:2122

 イエス様のことをキリスト、救い主と告白をするペトロが、その直後に、イエス様が十字架にかかり復活なさるという予告を聞いて、受け止めることが出来ずイエス様をいさめてしまうという話です。恐らく引っかかったのは十字架にかかるという言葉だったのでしょう。救い主が十字架にかかることなどあってはならない、ということです。イエス様が誰のために十字架にかかり復活なさるのかということがなかなか理解出来ない、頭の固い様子が描かれています。先ほど歌いました讃美歌248番ではそのことを、繰り返し「石の心を打ち砕き給え」と歌って思い起こします。十字架と復活の意味が心にしっかりと刻みつけられるまで、ペトロの心は、そして私たちの心は、何度も砕かれ直されなければなりません。

 オリーブ山へ向かう道中、イエス様は弟子たちにこうおっしゃいます。

 「弟子たちはこれから私に躓いて、私は一人で十字架につく。しかし安心しなさい、私は復活して先にガリラヤに向かう」。

 それに対して応じたのがペトロだったのです。イエス様、そんなことがあるはずがありません。私たちは躓いたりしないからです。またここでも「そんなことがあるはずがありません」とペトロは口にしています。

 この時ペトロが口にする否定の言葉は、今までと少し内容が違います。ペトロはイエス様の三回に及び受難予告を耳にしました。イエス様が十字架につくことなどあってはならないと言いました。今回ペトロが聞いたのは、弟子たちが躓くという予告です。それに対してペトロは、そんなことがあるはずがない、といったのでした。自分たちがイエス様に躓き、離れることなどあるはずがない。ましてや、私ペトロがイエス様についていかなくなることなど考えられるはずがない。十字架につくという予告を理解出来ないままで、今度は自分たちの離反という予告をもペトロは軽んじ始めるのです。イエス様の予告を、あるときには十字架、あるときには離反を、真剣に受け止めないで逆にいさめてしまう。その様子に応じる形でイエス様は、「目を覚ましていなさい」とおっしゃるくらいです。

 今日の聖書箇所を何度も読み、そして聖書を閉じて思い起こすということをやってみました。そうすると、自分が印象に残ったところと残らないところがはっきりするのではないかと思い、やってみました。そうしたところ、割とはっきりした自分の記憶の様子の特徴が分かりました。大まかにいうと次のように今日の箇所の前半をまとめていないでしょうか。イエス様が離反を予告し、ペトロと弟子たちがそれを否定する。新共同訳の見出しもまたペトロの離反ということを打ち出しています。

 新共同訳の見出しからも、そして私自身の最初の印象からも、32節の言葉が抜け落ちていることに気づきます。そしてこれは偶然ではなく、弟子たちもまた31節の言葉には反応していますが、32節の言葉は理解していないようです。私たちは、つまり日本聖書協会の見出しを打つ人と私自身とそして弟子たちは、32節をそんな言葉あったっけと思ってしまう、集団的記憶喪失、集団的無理解に陥っている可能性があるということに気づきました。イエス様は32節でこうおっしゃっています。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。こうおっしゃっていると理解出来ます。あなた方は皆私に躓き、私のもとを離れてしまう。だから私はひとりぼっちになって十字架にかかることだろう。しかし安心しなさい。私は必ず復活する。そしてガリラヤの故郷に先に行って、あなた方を待っているだろう。本当は今日の箇所はイエス様が復活して弟子たちを導いて下さるという、「約束」について語っている箇所です。今日の箇所で起こっている集団誤解は、イエス様がこの箇所で弟子たちの離反を非難しているという誤解です。しかし実際には、離反する弟子たちをも導いて下さる復活の主の約束です。

 ペトロの耳には、みんな負けちゃうから一人でガリラヤに行くよ、という風に聞こえたのでしょう。それに対してペトロたちは、「私たちが負けるはずがない」と誓ったことになります。新共同訳の見出し同様に、ペトロは誤解をしました。しかし実際には、今の言い方を借りるならイエス様は、「みんな負けちゃうので私はその負けを引き受けて私は死ぬけれども、安心しなさい、私は生き返るから」という安心の約束を語ったのでした。弟子たちは「みんな負けちゃう」という自分たちへの批判めいた予告の言葉を聞いてしまっていた。

 

 *弟子たちは批判として受け取る

 時々、人間って恐ろしい勘違いをする、ということを思わされます。イエス様が安心の約束を語っているのに、そこに批判を聞き取ってしまう。逆のこともあるでしょう。イエス様が弟子たちを批判なさっているのに、弟子たちは勘違いして安心してしまう。どちらにしても、こういった勘違いは、現代の信仰者の間でも起こるように思います。なぜ弟子たちが、そして私たちが今日の箇所でイエス様が32節の約束の言葉を語って下さったことを忘れてしまうかといえば、弟子たちにとって、さらに私たちにとって復活ということがまだ十分理解されていないからなのではないかと思います。もっと正確にいうならば、復活信仰は私たちの信仰の大きな枠組みを作っていて、復活信仰の枠組みの中に悔い改めとか礼拝生活とか主に従うとか罪の贖いとか、その他ありとあらゆる信仰的要素は復活信仰の枠組みの中に置かれます。だから今日の32節の復活の喜びに共に与ろうという呼びかけの中で、躓きの予告がなされています。しかし弟子たちは、主に従い続けることが出来ないという、躓きの予告だけを聞き取って、単なる批判だと思ってしまった。主に従うということは確かに大事です。しかしそれは復活の喜びの中で初めて意味を持つのであって、主に従うことは大事だということだけをいうのであれば、それは単なる律法主義です。福音の中に律法があるのであって、律法と福音が別々にあるわけではないのです。

 この一年間、社会は未だ経験したことのない事態の中に置かれ、教会もまた少なくない混乱に置かれました。礼拝を続けることに困難を覚えた教会も多くありました。私たちの教会は、礼拝を続ける道を選択しました。しかしそれもまた困難な道ではありました。特に私が感じたのが、何か野蛮な勇気を持って無謀にも礼拝を続けるという風に取られているのではないか、という怖れです。そして実際に、先日の社会部のセミナーで上田文牧師が韓国の事例を報告して下さいましたが、その中でもいくつかの韓国の教会がマスクをしない礼拝を通じて集団感染を起こした、ということをおっしゃっていました。私たちの教会は、野蛮な勇気によってすべての集会を今まで通り続行するのでも、臆病風に駆られて教会でのすべての集会を閉鎖するのでもない、第三の形を求めました。それは主にお会いする喜びを一旦礼拝のみに絞り、礼拝を安全に行うことにだけ全神経を集中させるということでした。礼拝の中で主に出会う喜びを実感できるのであれば、それ以外のものは添えて与えられると信じるしかない状況でした。色々な混乱の中で、十分に課題を果たしたとは言い切れないかも知れません。役員の方が祈りと忍耐をもって礼拝に集い、教会を支えて下さいました。

 私たちの今年度の教会聖句は、今日の聖書箇所のルカの平行記事です。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と主はペトロにおっしゃいました。隣接地献金というものを、福音の出来事の一つとしてではなく事業計画として捉えた場合、教会は混乱に陥ることがあります。鍵になるのは、力づける必要がある兄弟姉妹を励ますためには、主イエスが私たちのためにして下さった祈りをいつも覚えている必要がある、ということです。イエス様はペトロにこうおっしゃいました。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。これはペトロを批判するためにいったのではありません。ましてやイエス様に超自然的でスーパーマン的な予知能力があるということをいっている神がかり的な預言のでもありません。そうではなく、後数時間足らずのうちに、何度もペトロは主との関わりを否定することになるだろう。しかしそうであっても、私はあなたのために祈る、という約束の言葉です。

 

 *目を覚ましていなさい

 そうだとするならば、38節のイエス様の言葉もまた、律法主義的な命令ではなく、福音的な約束の言葉として理解することが出来るでしょう。イエス様は弟子たちにこうおっしゃったのでした。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。ゲッセマネの祈りは取りようによっては三時間は続いていたとも取れますが、その間ペトロたちは目を覚ましていなさいといわれていたにもかかわらず、起きていることは出来ませんでした。時刻は真夜中です。起きていろと命じる方に本来無理があります。恐らくここでいう目を覚ましていなさいというのは、夜中でも師匠が祈っている間は失礼がないように番をしているのが礼儀だとか、そういう話ではないと思います。そうではなく、死ぬばかりに悲しいとおっしゃるイエス様の思いに心を向け、イエス様が祈っておられるすぐ近くに居続けることで、目を覚ましたことになる、という意味ではないかと思います。もしそうだとするならば、この「目を覚ましていなさい」という言葉は、夜中でも起きていなさいということを求めているのではなく、主の十字架と復活の意味に目が開かれている者でありなさい、という意味でおっしゃっていることになります。

 つまりこうです。イエス様は今、弟子たちが皆ご自分につまずく様子を想像し、そのことを弟子たちに伝えてみたが、自分たちがつまずくことがないという、ある意味寝ぼけた反応を得るばかりで、本当に目を覚ましているとは言えない状況である。そんな中で一人ご自分は十字架への道を進むことになる。十字架への道はどちらにしても歩まなければならないが、人間の弱さや罪をすべて背負っての道のりの中で、イエス様ご自身もまた悲しみを感じる。この人類の悲しみを背負う瞬間を、三人の選ばれた弟子であるあなた方と共有したい。あなた方もまた、人類の悲しみに対して目を覚ましていなさい。

 

 イエス様は、目を覚ましていなさいという命令をもまた誤解してしまう弟子たちのことを、よくご存じです。しかしにもかかわらず、目を覚ましていなさいとおっしゃり続けて下さる。この言葉を聞き続けることによって、私たちは主イエスの救いの御計画に目覚めることが出来るようになるのです。