裏切りと信頼

2021/03/14 受難節第四主日(教会創立記念) 

裏切りと信頼 マタイ126回(26:14~25) 牧師 上田彰

 *世の中で一番怖い物

 落語の枕話で聞いたことがある話です。世の中で一番うるさいものは何かを決めることにしましょう、という頭の中だけのコンテスト、知恵比べが行われました。参加した人は口々に、亭主のいびきとか、駄々っ子のおねだりとか、次々と答えが返ってくる中で、ある人がこう答えました。夜の12時頃の時計屋。その場にいた人が皆うなる答えでした。少しずれた時計がありますから、12時少し前から鐘が鳴り始めます。皆が寝静まった夜中に、時計だけが響く。これよりうるさいものは無いだろう、というわけです。

 さて、世の中で一番怖い物は何でしょう。そう問いかけられたら、なんと答えたらよいでしょうか。今日はそんな話を共に聞きたいと願います。

 私たちは受難物語を読み進めています。人間が神に反逆するという物語です。そして人間はなぜか圧倒的な力で神様を押さえ込んでいる。26章から始まる受難物語全体が、そもそも怖い物語です。しかしその物語の中で今日の箇所は、別の意味の恐ろしさが加わっています。それは、この圧倒的な力で神様を押さえ込む格好になっている人間が、では想像もできないような残忍さとか、身の毛もよだつような残酷さで神の御子を十字架にかけているのかといえば、そうではなく、特別で特殊でちょっと世の中の普通の人にはできないようなことを受難物語で一種の主人公に当たる加害者側の人間がやってしまった、というのでもない、ということです。ですから私たちがちょうど、ホラー映画をスクリーンで眺めているというのとは異なる恐ろしさがこの物語にあるのです。ホラー映画、つまり特別な人間や人間もどきがおぞましい格好をして登場して、おぞましいことをやってのけるということよりも、ずっとホラーな、恐怖な状況がここで起こっているのです。今日の登場人物は、平凡な背景と平凡な能力、そして平凡な志しか持っていません。にもかかわらず、究極の非人間的な業、神を裏切るということをしでかしてしまう、そこに本当の意味の恐ろしさがあると思うのです。

 かつて人類を震撼させた犯罪的な政策に、ヒトラー率いるナチスが行ったユダヤ人弾圧がありますが、非人道的な政策を行った政府高官の一人であるアイヒマンという人物について、戦後に彼を戦争犯罪人として裁く裁判を傍聴した哲学者のハンナ・アーレントが、衝撃を受けます。ナチ親衛隊員として、ユダヤ人を強制収容所に移送する列車を動かした当の責任者、彼の指示で大量殺人が行われることになった、その真意と背景を裁判で明らかにさせ、極悪非道なふるまいが糾弾されるべきだと考えていた彼女は、アイヒマンという紛う方なき戦争犯罪人が、「ただ命令に従っただけ」であること、つまり「悪」の本質は「平凡さ」であったことに衝撃を受けたのです。

 もし今日の受難物語の、ある意味での主人公であるイスカリオテのユダが、非凡な極悪人であってくれれば、私たちは「これはひどい。罪なき神の御子を十字架にかけるために愛する弟子の一人が師匠を売り飛ばしてしまうとは。ナチスも真っ青なくらい人類史上最悪の犯罪が2000年前に行われた」ととりあえず口では言いながら、内心胸をなで下ろすことが出来ていたかも知れません。「ああ良かった、イエス様を裏切ったのは、どうやら極悪人だったらしい。なにしろ彼は弟子として財布を管理しており、その中身をごまかしていたようだ。さらに私利私欲を貫いて、師匠まで売り飛ばしてしまったか、あるいは、財布の管理の際に不正をしていて、その不正がばれないようにと師匠と弟子によるグループを強制解散させたのだ」、などなど、とにかく、ユダを自分には縁遠い人物に仕立て上げてしまうことが出来るのです。しかし今日の聖書箇所に出てくるユダは、ごく平凡な人物です。私たちのすぐ側にいてもおかしくないし、私たち自身であってもおかしくない。この平凡な人が神を裏切っている。だからこそ私たちはユダのことについてもっと知っておくべきなのです。

 

 *「清く正しい」正義の味方、イスカリオテのユダ

 今日は後半の20節以下から見て行きたいと思います。イエス様は、食卓の席でこうおっしゃいました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。それを聞いた弟子たちは、みな非常に心を痛め、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めるのです。後から考えてみますと不思議なことですが、ここで代わる代わる言い始めた弟子たちの中に、ユダもいたのです。その時のユダは、すっかり他の弟子たちと同様に、非常に心を痛めながらそうイエス様に問う者の一人になりきっていました。

 さらにイエス様は続けておっしゃいます。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。誰かがイエス様と一緒に、サラダか何かにつけるための、ディップソースかジャムのようなものが入った鉢に同時に手を入れていたのでしょう。それがユダだけであれば話は簡単です。確かに聖書の元の言葉を分析するなら、その時イエス様と手が重なっていたのは一人だけであったようにも取れます。しかし、恐らく何人かの弟子たちの手がほぼ同時に鉢に伸びていたのでしょう。すべての弟子たちが、「イエス様がおっしゃったのは他でもない、ユダのことに違いない」と誰でも分かるような状況ではなかったようです。いえ、客観的に冷静に後から考えてみれば、そこで手を伸ばしていたのはユダだけだったかも知れない。言われてみればイエス様が指していたのは最初からユダ一人だったのかも知れない。しかし、弟子たちは、そのように考えたくなかったのです。仲間内で、犯人捜しなどしたくないからです。そういうときに、頭の神経回路は、ユダの名前をイエス様のおっしゃった裏切り者という言葉と結びつけないように働き始めます。そして興味深いことに、ユダ自身もまた、イエス様のいう裏切り者という言及が自分に向けられているとは考えきっていなかったようです。

 

 続けて今日の前半を見てみます。イスカリオテのユダは、大祭司カイアファの屋敷に陣取っている祭司長や律法学者たちのところにやって来て、イエスを引き渡すという話を彼らに持ちかけるのです。つまり、おもむろに祭司長や律法学者たちが縄と武器を持ってイエス様に近づいていったら、周りの人々に怪しまれてしまいます。すでにイエス様や弟子たちからは警戒されていることも分かっています。騒がれでもしたら計画が実行できません。特に今から過越祭という、年に一度の大きな祭りが開かれようとしています。一説ではエルサレムに集まる人の数は数百万もいたのだそうです。そのような中では人目につきますから、むしろ祭りが終わってからイエスを捕まえよう、というのが彼らの最初の計画であったと5節に書かれています。いずれにせよイエスを捕まえるのにはタイミングというものがあります。いわゆる黄門様のご印籠ならぬ、桜田門様の逮捕状があって、逮捕する者たちのことを妨害する者は公務執行妨害でつかまるとか、そういう時代ではありません。逮捕のタイミングが悪ければ、逆に追い返されてしまいます。イエス様を捕まえて裁判にかけるチャンスは一回きりと見た彼らは、タイミングを伺って数日待つことにしたのでした。そのことを察知したユダが、「勝負」に出るのです。

 その勝負とは、こうでした。イエス様を、できるだけ人が多いところで劇的に捕まえさせる。多くの人が見ているところで捕まえさせ、裁判官が正式に裁く裁判の被告人席にイエス様が立ってもらうように仕向ける、という「勝負」です。そしてそこからは、イエス様が話の中心人物になる、…そうやってユダは頭の中で色々計算をしていました。もともと弟子たちから会計を任されていたほどです。計算が色々働いたに違いありません。このままであれば祭りが終わってから逮捕されてしまう。こっそり裁判がなされるかも知れない。それだとしたら、イエス様が逮捕されてからの出来事が、人目につかなくなってしまう。ユダはある期待をしていたのです。逮捕されてから起こる出来事をいろいろ想像しました。

 

 *「イエス様こそ我が正義」と信じ切るユダ

 ユダはイエス様にかけていました。自分の尊敬する師匠が、このままで成り行きに任せてこっそりと十字架にかけられてしまうようなことは避けなければならない。なぜならこのお方は素晴らしいお方だからだ。このお方を中心にローマ帝国に立ち向かうユダヤ人のグループは結集できるし、そしていざローマ軍と戦うことになったとしても敵を蹴散らして下さることだろう。そして裁判もローマ皇帝の代理である総督が裁判を開いてくれる形であれば、その席で訴え主である祭司長や律法学者たちを一人で屈服させる、見事な演説をして下さることだろう。現に26章の終わりの方では、イエス様ご自身が、天使の軍団を父なる神に派遣してもらうことが出来るとおっしゃっています。そういう事をユダは期待しているのです。何か素晴らしいことが人々の目の前で起きるに違いない。だから、逮捕のタイミングは、できるだけ派手な方がいい。

 そこでユダは、祭司長や律法学者たちに持ちかけるのです。弟子である自分が手引きをすれば、縄や武器を持った集団が近づいてきても、それほど抵抗されることなく目立たない形で捕まえることが出来る、だから手を組もう、と。最初はイエス様の側の内通者がいなくても、祭りが終わればいくらでも機会があると律法学者たちも考えていたはずです。しかし、イエスの側に内通者がいるなら、祭りの最中でも大丈夫かも知れない。とにかく最終的な決断はこちらで行うから、逮捕の機会を教えてくれ、これが祭司長や律法学者たちがユダと協議した内容だったと考えることが出来ます。

 こうして、イエス様が過越祭のまっただ中に逮捕される筋道が出来上がりつつあったのです。そして鍵を握るのは、今や祭司長と律法学者ではなく、イエス様の弟子の一人になったのです。ねじ曲がった師匠への愛を貫く一人の人が、キャスティングボートを握るに至るのです。

 この裏切りの対価は銀貨30枚であったと記されています。少し安すぎる気がします。祭司長と律法学者たちは、まだ半信半疑でした。本当にイエスの弟子が裏切ってくれるのか。同時にこの額でよくユダは引き受けたものです。一説では、この銀貨30枚という額は、一人の奴隷を主人から解放する、いわゆる請け出しの際に支払う額であったともいわれています。つまり、イエス様に仕え従い続けてきた弟子として、なかなかローマ帝国に対して反旗を翻しユダヤ勢力の結集を呼びかけてくれないことに不満を感じていた。この自分が何かから解放されるためには銀貨30枚が必要だった、という解釈です。しかしさらにもっともらしい解釈はこうです。それは、意図的にはした金で引き受けた、というものです。自分は、お金のために動くのではない。師匠であり主人であるお方を裏切るのに、銀貨30枚は安すぎる。これから元仲間の弟子たちに追われる身になるのだから、少なくとも一年分の対価がもらえなければ逃げることも出来ない。しかしあえてはした金で自分の師匠を敵の手に引き渡しておきたい。お金の問題ではなく、志の問題として彼はこのイエス様を引き立てるための作戦を計画し実行しているのです。

 

 ですからユダは食事の時に、イエス様が裏切る者がいるとおっしゃったときに、皆と一緒になって心を痛めます。また偶然イエス様と同時に鉢に手を伸ばしていて、「今手を伸ばした者の一人が私を裏切る。その者は生まれてこなかった方が良かった」と言われても、いや他にも手を伸ばしていた者はいたはずだ、私が今実行しつつある計画は、裏切りではない、このようにひどい言葉が自分にかけられるはずがない、むしろイエス様を引き立てるために、味方として行っているのだから、そしられるいわれはない。そう考えたのです。

 こういうのを、「確信犯」というのだそうです。完全に自分のやることに入れ込んでいて、状況が見えなくなってしまっている。そして自分は正しいことをしていると心の底から信じている。つまり、神への反逆という史上最大の恐るべき悪は、実は悪意ではなく純粋な善意によって推し進められたのです。――そして残念ながら、その構造は現代でも残っているのです。殺人のことを「ポア」という言葉で宗教的に正当化する確信犯が一方でおり、他方ではそのような宗教は信者全員が弾圧されることは当然だといって弾圧を正当化する確信犯がいる。どこにも悪意がないまま恐ろしい物語があちこちで進んでいます。――善意だけで師匠を裏切りかけている2000年前の確信犯が、心の底からの純粋な疑問として尋ねるのです。「先生、まさかわたしのことでは」。イエス様は、「あなたはそう言うのかい」というような意味合いの答えをなさいます。強い叱責をなさらないお姿が印象的です。

 

 *「弱い神」に留まり続ける

 これらのやりとりのあとに、先週扱いました過越祭の晩餐が持たれたのです。12人の弟子たちが、この時にパンと杯をイエス様と分かち合いました。その中にはユダもまた含まれていたことになります。

 ある説教者の説教を今日の準備のために読んでいたときに、気づかされることがありました。目からうろことはまさにこのこと、と思ったほどです。それは、「ユダがしようとしていることを見抜いておられるにもかかわらず、主イエスはユダを追い出そうとはせず、ユダとも共に晩餐に与った。それは、主イエスが弱い神に留まるということを意味するのだ」、という一節です。

 「弱い神」。イエス様は、この受難物語において、そして十字架上での死に至るまで、神様として振るうことも出来ためざましい力を一切振るうことなく、弱いお方で居続けられました。弟子たちの共同体は、イエス様の体そのものです。その体が異物を含んでいる。そのせいでもうすぐ体が割かれようとしている。しかし名人芸を発揮するスーパードクター外科医のようにキリストの体をむしばむものを切り取って取り去るのではなく、その異物を抱え込み続けることをなさる。

 もし彼を排除したらどうなるか。いや、彼だけを排除することが出来るのか。12人の弟子たちの中で、ユダだけが突出した悪者だというわけではないのです。たまたま律法学者たちと手を組んだのがユダだというだけです。12人の弟子たちの中で、ユダだけがイエス様を理解せず、裏切りを志したというわけではなく、誰もがイエス様の真意が、目指すところが、十字架にあるということを理解しなかったのです。

 確かにイエス様は、ご自分が十字架にかかるとおっしゃっていた。しかし弟子たちはそれを、「ああどうしようもない、本当はいやなんだけれども十字架にかかってしまうことになるかも知れない」というような意味で取っていた。彼らにとってはイエス様が語る十字架という運命とはそのような理解だったに違いありません。しかしイエス様は、「十字架にかかることが父なる神の御心なのだ、だから私もその御心を引き受けたい、そして異物を抱えた弟子たちをありのままで受け入れるもので居続けたい」、そう考えておられたのです。

 そうやってこのお方は、弱い神で居続けて下さいます。もしこのお方が強い力を振るって、(期待する時系列で後からの順で申しますと)ローマを倒し、「十字架から降りてきたら信じてやる」というローマの兵士の挑発に応じる形で十字架から自力で降りてきて、主イエスを捕まえに来た者達を倒し、師匠を裏切った弟子を倒して下さるなら、むしろその方がユダにとっては居心地が良かったかも知れません。イエス様が神様であることが誰の目にも、ユダの目にも、はっきりするからです。しかし、そうはなさらなかった。ローマを武力で倒すことなく、十字架にはかかったままで、捕まるときには従順で、裏切った者をも排除することなく食事の時を持つ、このお方のユダにとっての心地悪さは、拭い去りがたく存在するのです。

 

 *「『私たちの正義』の中に潜む悪」からの解放

 悪は平凡です。本当の残酷さとは、特殊なものではなくどこにでも見出されるものなのです。だからこそ私たちは、主イエスが、弱い神で居続けておられるが故に、自分の中の罪に向き合い続けなければならないのです。まさか私のことではないでしょうとイエス様に私たちが申し上げても、イエス様はそれはあなたの言ったことだ、とだけ私たちにおっしゃる。

 そのような私たちに対して、イエス様がさらに一つの言葉をお示し下さいました。それは「わたしの時が近づいた」という言葉です。裏切りの計画が水面下で進んでいる中で、イエス様は過越祭に合わせて、晩餐の時を御計画なさりました。その時にイエス様がおっしゃった言葉が、「わたしの時が近づいた」であったのです。それはちょうど、イエス様が宣教を開始なさるときにおっしゃった、「神の国は近づいた」という宣言にも似たものであると言えます。神の国が近づいた、とは神様の御計画が実現するときが来た、ということです。同じように、私の時が近づいた、というのは、その計画がまさに今実行されようとしている、ということです。

 ユダはこの言葉を、「私たちの時」と取り違えてしまった。ユダには自分の考える正義の筋道があるのです。自分の考える正義がイエス様の考える神の国と一致することを願っていたのです。しかしイエス様は、「あなたがたの時」とはおっしゃって下さらなかった。

 

 今日の礼拝を、教会創立記念を覚えつつ守ることといたしました。伊東の地に福音伝道の種が蒔かれたのは教会設立より10年ほど前、1898年に宣教師が現地の医師に伝道協力の約束を取り付け、木部時計店の裏に最初の礼拝堂を建てる前にその医師の提供した家屋を仮伝道所として用い、そこで礼拝を守り、伊東での初めての洗礼もその場所で行われました。記録によれば、その医師の奥様が洗礼を受けたという記録があります。しかしそのフルネームは分かりません。そして千葉という名の医師が洗礼を受けることはついぞありませんでした。ある意味でセットランド宣教師の伝道戦略は功を奏さなかったのです。そして私たちは、このことをどちらかというと、こっそり語る傾向があるように思います。目に見える成功だけを教会の歴史に数えたいからです。

 しかし思うのです。私たちの伝道戦略は、いつだって成功していません。もう少しこうやったらいいのに、など昔の資料を見て思うことは沢山あります。しかし歴史に「もしも」は禁物です。その時代に自分が思うようにやったところで、やはり成功していないかも知れません。むしろ、そうやって「私たち」の伝道戦略が大成功を収めなかったことは、今日の聖書箇所からしたら御心なのではないか、私たちの作戦ではなく、神様の御心が実現することの方が、ずっと意味があるのではないか。そう考えたときに、伊東教会の120年以上の伝道は、成功の連続であることに気づかされます。私たちの考える正義や成功をかざさなくても良い、神様の御心が実現するなら、それこそが成功なのです。

 

 イエス様は「私の時は近づいた」とおっしゃいました。めざましい奇跡的な神様の力が発揮される形で神様のことを信じられるときが来るのでもなければ、お金や権力や人気が沢山集まってくる形で神様のことを信じられるときが来るのでもありません。そういう事を標榜する教会はしばしば「力の信仰」に陥ってしまいます。私たちの教会は一年前、こう確認して礼拝を続行したことを思い出します。「細々とで良いから、礼拝を続けよう。戦時中にも礼拝をやめなかった先輩の志を引き継ごう」。こうして、私たちの主イエスキリストは、私たちの教会の十字架に120年、いえ2000年間留まり続けておられます。

 

 

 パウロが残した言葉によって説教を締めくくります。マラナタ、主は近い。