最後から二番目の食卓

2021/03/07() 受難節第三主日聖餐礼拝 マタイ説教第125 262629 最後から二番目の食卓                           牧師 上田彰

 *終わりの始まりを教えられる

 ある時駅で広告を見ていて、ふと目にとまったコピーに、こんなものがありました。「アザラシの親子の生活は一週間。母が子と別れるとき、もっとも大事なことが伝えられる」。そんなコピーです。

 別れの中に、言葉にはならない教えが込められている。特に子どもを持つようになって、「この子との別れはどのようなものなのか」ということを考えないわけではありません。決して悲観的な意味ではありません。むしろ、今は親にべったりの娘が、親がいない中をどう生き抜いたらよいか、そしてそのために今伝えられることはなんだろうかと、肯定的に考えます。先ほどのアザラシの話で重要なのは、親は自分と子どもとの別れが近いということを知っている、ということです。普段の私たちの思考習慣として、別れの期間というものを重んじます。たとえ別れることが分かってから短い期間で実際に別れなければならないとしても、その期間を大事にするのです。アザラシの子どもは、それに比べると突然母親と別れなくてはならないのかもしれません。人間の場合は、唐突な別れというものもありますが、多くの場合は別れることになると分かってから、実際に別れるまでの時間をその期間が一年であろうと15秒であろうと、別れの時として活用します。集中して最後の交わりを持つのです。備えられた別れの時間に多くの交わりを持ち、多くのことを伝え、多くのことを吸収する。こういった愛する人との別れを誰もが経験します。

 今日の聖書箇所を描いたレオナルド・ダ・ビンチの作品はご存じの通り、「最後の晩餐」という名前で知られています。ご存じ、12人の弟子との別れの時です。作品の名前としては「最後の晩餐」で間違いありませんが、今のような事情故、聖書の今日の箇所を呼ぶときには、「最後の晩餐」という言い方は用いないことになっています。例えば新共同訳の見出しは「主の晩餐」ということで、「最後」という言い方はされていません。教会ではこの晩餐を「最後」と呼ぶことは、丁寧に避けられているのです。「古いことは良いことだ」といって古代からの言い伝えを頑なに守る教会としてロシア正教会などの東方教会がありますが、彼らによれば今日の箇所を「機密制定の晩餐」、つまり「秘密が明かされ、定められた晩餐」と呼ぶことになっています。

 そこで明かされた秘密というのは、文字通りにいえば、パンと杯を指してイエス様が「これは我が体、我が血」とおっしゃったこと、これが秘密の核心です。しかし違う言い方が出来るのです。今日の箇所で明かされた秘密というのは、「神の国で持つ次回の晩餐が最後の晩餐になるから、その文字通り最後の晩餐に備える生き方を、今から始めなさい」、つまり、「終わりが始まった」、これが「秘密」だということです。今日私たちに備えられていて、説教後に私たちが祝う式は、終わりの始まり、つまり最後から二番目の食卓を再現したものです。終わりの始まりから終わりの完成までを、十分に学び十分に吸収するためには、パンと杯が必要なのだ、この秘密を弟子たちは今日この時に教えられたということを、繰り返し私たちは思い起こします。

 主とともに過ごす期間の完成、つまり終わりが始まった。主イエスとの別れの時が始まった。このことを教えてもらうことこそが、最後から二番目の食卓の意味と意義に他なりません。

 

 *祝福される

 まさに受難節のまっただ中、終わりの期間を過ごす私たちが、「終わりの迎え方」について今日の箇所から学ぶことは大変に多いといわざるを得ません。その中でも、普段ないがしろにされている事柄を今日の箇所の中から取り上げてみたいと思います。それは、主イエスがパンを取り上げたときになさるふるまいの一つです。普段は文語訳の聖書を朗読する形で、主がおっしゃった制定の言葉、つまり主イエスが明かして下さった秘密を通じて聖餐をお定めになった言葉(「制定語」)が唱えられています。「主イエス渡されたまふ夜、パンを取り、祝してこれを割き、しかして言ひ給ふ。『これは汝らのための我が体なり、我が記念としてこれを行へ』」。この中の、「祝して」ということが、ないがしろにされているのではないかと思うのです。祝福されるということがないがしろにされているということでしょうか。文語訳において「祝して」、つまり「祝福する」ということが、新共同訳では「賛美の祈りを唱えて」と訳されています。聖書の元の言葉を見ると、良い言葉を与える、つまり同じことなのです。神様が人間とかものに「良い言葉」を与えると祝福になり、人間が神様に「良い言葉」を向けるとそれが賛美になる。

 先ほど、「祝して」、つまり「良い言葉を与え、受ける」ということがないがしろにされていると申しました。まず第一に、良い言葉を与え合うという関係が、社会においてもそもそもないがしろにされていると思います。最近聞いた言葉に、キャンセルカルチャーという言葉があります。キャンセルというのは、ある地位に就いている人を辞めさせる、という意味です。ある重い地位に就いている人が、どう考えても女性をさげすんでいるとしか取りようがない発言をした。そこで辞めさせてしまえといって大きく世論が盛り上がりました。ではその人が辞めるとして、次に誰がなるか。会長が辞めれば普通は副会長が会長になります。その組織には何人か副会長がいますから、その中から会長になる人を決めるというのが常識です。ところがこの会長が、後継者を全く育てていなかった。これは元首相とは思えない大失態です。自分と事務局の何人かをのぞいて、すべて名誉職、お飾りだったのです。そこで一体誰が新しい会長になるのか。報道メディアはそのことをしばらくずっと追いかけ回していました。そして名前が挙がった人がどんな人か、報じられました。そしてそれらの人一人一人が、会長という地位に就くのにどのような問題があるか、散々報じられました。

 私たちはこういった事象が、政治のレベルだけでなく、実に色々な方面で起こっていることを知っています。東京オリンピックがこのまま流れてしまうだけでなく、オリンピックというものそのものが今の形では続けられないのではないか、そして日本という国はこのまま低落傾向を続けるのではないか。私たちの日本基督教団もその例外ではないのではないか。これらの現象はすべて、実質的には「終わりの始まり」です。イエス様が「もう終わるよ」とおっしゃって下さらない「終わりの始まり」は社会を混沌に陥れます。

 考えてみると、「終わりの告知」は時々人々を混乱させます。「終わりの告知」といえば思いつくことの一つが、医者による「余命宣言」です。余命宣言が関係者にもたらす悲喜劇は、枚挙にいとまがありません。やれ相続はだの、後継者はだの、騒ぎになるのが人の常です。しかしその一方で、「余命宣言」によって本人が不思議な落ち着きを見せるということも聞きます。余命宣言を受けてなお宗教的救いに関心を示さない悲喜劇と、余命宣言がある意味で神様によってなされると受け止め、神様に思いを向けることとの違いを思わざるを得ません。主イエスが、良い言葉として告げて下さる終わりの始まりと、人間が察知して悪い思いを持って捉えてしまう終わりの始まりには雲泥の違いがあると思わざるを得ません。

 

 主イエスはここで、良い言葉を口になさることで、神さまを讃美し、そして目の前のものを祝福なさった。神様をしっかりと見据えておられるからこそ、お語りになる言葉は良い言葉になるのです。すべて自暴自棄になり憎しみや諦めの言葉を語るキャンセルカルチャーを一方で経験する私たちが、主イエスの良い言葉に耳を傾けるのです。

 

 *聖餐を巡る紛争

 しかし聖書を読み、主の良い言葉に耳を傾ける信仰者が、みな平安と希望に満ちた信仰生活を送るわけではありません。特に今日の箇所を巡って血みどろの戦いが繰り広げられたこともまた知っておかなければなりません。16世紀といえば宗教改革の世紀です。ローマ・カトリック教会と福音主義プロテスタント教会とを分かつ重要な違いが、パンと杯に関する理解の違いです。パンが実際に主イエスの肉となり、杯には主イエスの血が注がれているのか、そんなことは本当に起こるのか。そのことを巡って、教会の中で争いが起こりました。礼拝の時に言い争いが起こり、やがて互いに武器を取り合ったのです。実はプロテスタント教会の中でも、その後さらに続けて内輪もめとも呼べる争いが起こりました。ルター、カルヴァン、ツウィングリ、宗教改革を担う者たちの間で、最後まで一致しなかったのが聖餐式の意味と意義に関する理解です。聖餐卓の前での取っ組み合いはその後も続いたのです。宗教改革が1517年だとするならば、それから十年余りの間に、ルター派と改革派の違いは埋めがたいほどに広がってしまい、ヨーロッパでは20世紀になるまで、ルター派の信徒は改革派の教会で、改革派の信徒はルター派の教会で聖餐に与ることが出来なかったというほどです。日本に住む私たちは、カトリックやルター派と私たちは違うことは分かっています。少なくとも違いがあるということは耳にします。しかしその違いはあくまで学校で学ぶような論争であって、小難しい議論の上での違いに過ぎないと思っているかも知れません。しかし聖餐理解の違いは、論争のレベルのみならず、紛争のレベルで起こっていました。このことは、当然のことながら多くの信仰者の心を痛めることでもあったのです。

 今から20年ほど前でしょうか、東京の教会で伝道師をしておりましたときに、東神大出身の牧師が集う仲間内の勉強会にカトリックの神学校で礼拝学を教える方をお呼びすることになりました。一通りその方が講演をして、質疑応答の時に、ある年輩の牧師が、次のように聞いたのです。「今でもカトリックでは、聖体拝領(聖餐)の時、司祭が祝福の祈りを唱えるとパンは肉に、ぶどう酒は血になると考えているのか」。正直、かなり不躾な質問だと思いました。恐らくその年輩の牧師は、自分の信仰的確信からして、カトリックの聖餐理解は間違っている、そういう思いがあって、ご自分が聖餐式でパンとぶどう酒を祝福するときの思いをかみしめながら、どうしてもカトリックの聖餐理解について持っておられる違和感を口にしたのだと思います。

 論争の種、いえ紛争の種を振り向けられたカトリックの若い礼拝学の教師は、全く顔色を変えずに次のように言いました。「中世と同じように考えているとは思わない。私自身が思うのは、司祭が祝福をしたときに変わるのは、パンとぶどう酒だけではないのではないか、ということだ。司祭が祝福をしたときに、その場にいる信仰者もまた皆変えられるのではないか」。その言葉を聞いたとき、その場にいた何人かの牧師が、「ほう」という言葉を言ったように思います。私自身、胸がすく思いがしました。その良い言葉によって、祝福されたような思いがしたことを、よく覚えています。

 そしてそれ以来、自分が聖餐式が出来るようになったときに、文語訳の聖書を使って制定語を読もうと思うようになったのです。少し専門的な話しになりますが、手元にあります教団の式文は第一コリントにある方の制定語を採択していて、その場合この箇所は「感謝してこれを割き」というパウロの言葉を用いることになります。それに対してマタイ福音書の文語訳は「祝してこれを割き」といって、「祝福」を強調するのです。もちろんここで司式者である牧師は、神さまを讃美しますし、また感謝もします。しかし、司式者は祝福をするのです。良い言葉をただパンと杯にだけ向けるのではなく、その場にいるすべての信仰者に向けて与えるのです。

 これはないがしろにされていいことでしょうか。私たちは、聖餐の食卓の前で、信仰の名によって暴言を、そして暴挙に及んだ歴史を無視することは出来ません。それもまた人間であり、世の常なのです。しかしその人間が、そして世界が、キリストによって祝福される。キリストの名によって祝福を与えられる。

 

 *感謝は主から与えられた賜物

 先ほども申しましたように、制定語の核心にあるのは、パンと杯を掲げて、祝福し、また感謝と賛美を献げることにあります。神様が祝福をして下さるということと、感謝・賛美を口にすることとは切り離すことは出来ません。私たちはしばしば、人間がなす感謝や賛美の行いがちっぽけで汚れたものであるという思いに囚われることがあります。確かに「口から出て来るものが人を汚すのである」とイエス様もおっしゃいました。しかし、「感謝や賛美の言葉もまた汚れている」と考えることは明らかに行きすぎです。それはちょうど、「お金は汚れているものだから、信仰的な行いであるところの献金もまた汚れていて、そのことについて口にしない方がいい」という考え方が行きすぎであるのと同じであると思います。私たちは祝福をないがしろにし始めたときに、実は感謝と賛美をも、ないがしろにしてしまっているのではないでしょうか。そのようにして信仰告白や奉仕・献金、それに祈りをもこれらは人間の業だからといってコンプレックスを持ち、こっそり左手の業として行うようになってしまっているとするならば、今日の箇所に立ち戻って、もう一度信仰の原点を思い起こす必要があります。主が最後から二番目の食卓で、何を私たちに教えて下さったかを。

 キャンセルするのではなく、良い言葉を用いる。これは、すべてのことを感謝して受け止めるということにもつながります。私たちは、これから主イエスにご自身の体と血とを分け与えていただきます。主イエスから、共同体と、そして罪の赦しを与えていただくということです。配られるのは単に一個35円のウェハースとぶどうジュースでしょうか。これは主イエスから良い言葉をかけられることによって、そして何より私たち自身が良い言葉を向けられることによって、感謝してこれを受けることが出来るようになるものなのです。私たちがこの主イエスの祝福のうちに生かされるとき、すべてのものに感謝することが出来る。聖餐に与る者は、最後から二番目の食卓に繰り返し着くことが許されている者です。私たちは繰り返し、ここにおいて祝福を経験し、感謝と喜びの生活に向かうように、主によって整えられ始めるのです。ドイツ教会における聖餐の招きの言葉(主イエスご自身の言葉)によって、今日の説教を締めくくりたいと思います。

 

 

 来て下さい、すべての準備は整いました。