命もたからも神の国にあり

2021/02/21 受難節第一主日礼拝 ルカによる福音書4112

命もたからも神の国にあり」                    牧師 上田文

 

今日は、受難節第一主日です。先週の水曜日は灰の水曜日と言われ、この日からの40日間を受難節と言います。最近、私は韓国の教会の状況と日本の教会の状況を照らし合わせる研究発表を準備していますが、日本の教会と韓国の教会の違いの一つは、この受難節の過ごし方にあると思います。韓国ではこの受難節の期間、ご飯を食べないでお祈りをするという人が大勢います。教会学校では、40日間何か我慢する事を決めます。多くの生徒が、テレビを見たりおやつを食べたりする事を我慢します。その事を通して、イエスさまのご受難を覚えるのです。だからでしょうか、受難節の期間、多くの人の顔は、暗く、私は受難を覚えています、受難中ですという顔付に変わってきます。何となく、声をかけにくくなることもあります。それに比べて、日本はどうでしょうか。私たちの教会は、今日から受難節祈祷会を行いますが、教会に集まる信仰者が受難中ですという顔の人はいないような気がします。イエスさまのご受難そのものには、それほど重きを置いてないのではないかと思います。私たち夫婦は、この受難節に結婚式を開いたほどです。

 今日の話は、私たちがこの受難節をどのように過ごせば良いのか、イエスさまはこの受難節に、私たちに何を求められておられるのかを教えてくれています。

 

イエスさまは、洗礼を受け「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」という天からの声を聞かれたとあります。今日の荒れ野の誘惑の話は、イエスさまが神さまの子であると宣言を受けられた、そのすぐ後の話です。悪魔は「パンを石に変えたらどうだ」「国々の一切の権力と繁栄を与えよう」「神殿の屋根の端から飛び降りたらどうだ」とイエスさまを誘惑します。しかし、聖書をよく読むと、霊がイエスさまを引き回したとも書かれています。つまり、この誘惑は神さまが与えられた誘惑であるとも言えます。この誘惑は、イエスさまが「神の子」「メシア」とは何であるのかを、自覚するために神さまから与えられた闘いなのでした。けれども、もう一つ確認しておきたいことがあります。それは、ここに出てくる誘惑はキリスト者に対する誘惑であるという事です。洗礼を受けた私たちは、神さまを「父よ」と呼ぶ神の子とされます。そして、自分の十字架を背負ってイエスさまに従う歩みを始めます。それは、復活に向けての苦難の歩みです。この苦難の中に、悪魔の誘惑があるのです。

 

 さて、悪魔の誘惑を一つずつ見て行きたいと思います。第一の誘惑は、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」という事です。「石をパンに変えたらどうだ」。この言葉は、私たちの心の底を言い表しているように思います。食べ物が無ければ私たちは死んでしまいます。私たちは、生きて行くためにどうか食べ物をください、「石をパンに変えてください」と神さまに願うように思います。「生きるためにパンを与えてください」「生きるために能力を与えてください」「生きるためにお金与えてください」、このように願うのです。ここでいうパンというのは、ひたすら自分自身を生かそうとする事、自分だけを愛する生き方を表しています。そして、この強欲を私たちは「生きるため」という言葉で正当化するように思います。

 このことを考える時、私はイスカリオテのユダの話を思い出します。ユダはヨハネ、ペトロに並ぶイエスさまの大切な弟子の一人でした。しかし、彼はイエスさまを、売ってしまいます。彼はイエスさまを殺そうとねらう祭司長たちや神殿守衛長から相当のお金を与えられました。しかし結局、このユダはイエスさまの死後にそのお金で買ったであろう土地に落ちて死んだと書かれています。なぜ、ユダはこのような不正を働くようになったのでしょうか。ユダは、イエスさまといつも行動を共にし、仲間の弟子たちからも好かれていたと言います。彼はこの一行の会計係まで任されていたのでした。ガリラヤからエルサレムへの宣教の旅は、ユダの切り盛りなしには行う事が出来なかったでしょう。五千人に食べ物を与える話を思い出します。弟子たちにはパン5つと魚二匹しかなかったと書かれています。別の福音書には、このとき弟子たちが持っていたお金を合わせても200デナリオンしかなかったともあります(ヨハネ67)。お腹を空かせた群衆と弟子仲間を見ながら、会計担当であったユダほど、お金とパンを切実に願った人はいなかったと思います。石をみながら「この石がパンに変わってくれたら」といつも思っていたのではないでしょうか。しかし、この「石がパンに変わってくれたら」という願いは、仲間を食べさせる責任感から欲望に変わってしまったのでした。食べ物がなくなってしまう、飢餓状態になる体験というのは、私たちの人間性を丸ごと変えてしまうような体験に繋がるといいます。裏切りや強欲の心を生むと言います。貧しい人々とお腹を空かせた仲間たちを前にして、誰よりも純粋に「パン」を求めたユダ。石がパンになればよいのにと石をにらみ続けたユダは、いつしか「パンだけで生きる」人にされてしまったのでした。またユダは、高価なナルドの香油をイエスさまの足に塗ったマリアにこのように言います。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。5千人のお腹を満たす事が出来ないのではないかと戸惑ったあの体験がよみがえります。仲間を支える事が出来ない、貧しい人を助ける事が出来ない彼の屈辱と惨めさが浮かび上がります。しかし、福音書には「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」とあります(ヨハネ1218)。惨めさの中で、パンは自分だけのものになってしまったのでした。そして、生きて行くために奪ってでも手に入れなければならないものに変わっていったのでした。

しかし、パンを手に入れても惨めさは無くなりません。結局、イエスさまと仲間たちを裏切ったユダは死んでしまいました。仲間をだましました。イエスさまを売ってしまいました。そのことによって、弟子同士の関係が、人と人が壊れてしましました。神さまのとの関係が壊れてしまいました。罪を犯したのです。この罪の重さのために、人に心が開けません。前を向いて歩けません。恐れと惨めさのためで、人を信じられなくなってしまうのです。愛する事が出来なくなってしまうのです。パンだけを手に入れる人生は、惨めに惨めを塗り重ねる事になっていったのでした。 

しかし、イエスさまはこのような彼を愛し続けてくださいました。イエスさまは、最後の晩餐の時に弟子たちにこのように言われます。「事が起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなた方が信じるようになるためである」。そして、パン切れを浸して取りイスカリオテのユダに渡しこのように言われました。「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」。イエスさまは、ユダを愛していたので、ユダの全てを知っておられました。そして、ユダを愛しておられたので、ユダの全てをお許しになったのでした。自分が裏切られ、牢に入れられ、十字架によって殺される事を許すほどユダを愛しておられたのでした。だから、イエスさまは、事が起こった時にも『ある』『わたしはある』という事を信じて欲しいと弟子たちに、そして、ユダに伝えられたのでした。

惨めさの中で、ユダは初めてイエスさまの愛に出会ったのでした。イエスさまは罪を犯したユダを責める方ではありませんでした。「わたしはあなたと共にいる」「わたしはある」と言ってくださるイエスさまでした。ユダはこの言葉によって気づいたと思います。イエスさまは初めから、自分の惨めな思いを知ってくださっていた。「石がパンに変わればよいのに」「そうすれば、人々の空腹を満たす事ができるのに」と、石をにらみ続けていた自分を知ってくださっていた。それは、ユダにだけの出来事ではありません。イエスさまは、「生きて行くために」と、石をにらみつける全ての人間の心を知ってくださり、全ての人間に「わたしはいる」と、その愛を伝えてくださったのでした。私たちは、イエスさまに愛される事によって、罪を受け入れる事が出来ました。そして、イエスさまと共に生きるものに変えられ、今この教会に座っているのです。

 「石をパンに変えたらどうだ」という悪魔に向かってイエスさまは「人はパンだけで生きるものではない」とお答えになりました。これは申命記の言葉です。申命記にはこのように書かれています。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」。人は神の言葉によって生きるという事です。神さまの言葉、それはイエスさまが教えてくれた「わたしはある」という言葉です。それは、安心してよいという事です。裏切り者のユダを愛し続けてくださったイエスさまが、今、私たちをも愛し続けて下さり、ユダにお与えになったように、パンを切って与えてくださるのです。このイエスさまと共に生きる時、私たちはパンだけにしがみつくのではなく、「パンと御言葉」と共に生きる事ができるようになります。

神さまが、全てを備えてくださいます。イエスさまは、その事を私たちに教えるために、空腹を覚える肉体を持ってこの世に来てくださいました。そして、荒れ野に生きる私たちのこの一つ目の誘惑に打ち勝ってくださったのでした。

 

続いて第二の誘惑です。悪魔はイエスさまを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて言います。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」。偉くしてあげよう、豊かにしてあげようと言うのです。しかし、この事には条件がありました。「悪魔であるわたしを拝め」と言うのです。この言葉は、偉くなったり、豊かになる事を否定するものではありません。聖書には、豊かになり、責任を持つ立場になった人が何人も出てきます。けれども、偉さや豊かさばかり求めると、その事に人は支配されてしまうという危険があります。先ほどのユダのように、自分自身を立て、自分自身を愛し、人と人との繋がりを壊してしまいます。ユダはとても優秀な弟子でした。弟子の中で誰よりも愛に満ち溢れていた事でしょう。しかし、イエスさまに信頼され弟子たちの会計を任されると、偉くなるような気がしたと思います。弟子たちの中で上に立つ者になった気がしたと思います。小さな共同体の中で上下関係を生み出そうとしたのでした。しかし、イエスさまはユダの心の動きを見ておられました。そしてこのように言われます。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」。弟子たちの上に立ったと思ったユダは、人助けに関心がなくなりました。助け合い協力する事で生きる必要がなくなったと思ったからです。それよりも、むしろ自分が更に偉くなり、豊かになる事を求めるようになりました。小さな共同体の王さまになる事を求めたのです。「我れが我れが」と自分の偉さと豊かさだけを追求し、王様になることを求める。そして、そのために助け合う事が出来なくなってしまう。このことは、ユダにだけ起った事ではありません。小さな共同体の中で生きる私たちが毎日のように経験する事です。

この事に対してイエスさまは、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」とおっしゃったのでした。自分の下に立つ者、自分が支配するものを造らないようにしなさい。あなたは、仕えるものになりなさい。あなたの上に立つ者は神さまだけですと言われたのです。つまり、小さな共同体の王さまになるなとおっしゃるのです。そして、全てを支配される神さまの国で生きる者となりなさいとおっしゃるのです。それが、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という言葉です。神さまの権威は真の正しさであり、神さまの栄光は愛であるとイエスさまは教えてくださいます。愛というのは、心を注ぐことです。ユダを愛し抜かれたイエスさまの事を思います。イエスさまは、ユダが裏切る事を知りながら、弟子たちにこのように教えられました。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ1334)。この言葉は、もし、ユダが悔い改めて立ち直ったら、ユダをまた受け入れてあげなさいということです。裏切りまでも許し、愛し続けてくださったイエスさまの言葉です。私たちにも、この愛が注がれています。そして、この愛の神様に仕えるとき、私たちは、自分のみが豊かになり、偉くなるのではなく、互いに愛し愛されて生きて行く、全世界に広がる神さまの国に生きる事が出来るようになります。この神の国の上に悪魔が君臨する事は出来ません。

 

最後に第三の誘惑です。悪魔は、イエスさまを神殿の屋根の上に連れて行き、こう言いました。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使に命じて、あなたをしっかり守らせる』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」。「神の子なら」というのです。イエスさまは、この地に来てくださって人となられた神の子です。神さまは天におられ、御自分は地にいるのです。天と地には隔たりがあります。この隔たりは、イエスさまだけでなく、神さまを信じる私たちが感じる、神さまとの隔たりでもあります。そして、この隔たりを繋ぎ合わせるものが、神さまに対する信仰と信頼であるとイエスさまは教えてくれます。不思議な事ですが、私たちは真面目に、熱心に信仰を持つと、神さまを試したくなります。熱心になればなるほど、本当に神さまがおられ、自分を守り導いてくださるのか、神さまを信じ依り頼んで本当に大丈夫なのかということを試して確かめようとするのです。

ここでもまた、ユダの話を続けたいと思います。ユダはなぜイエスさまを権力者の手に引き渡したのでしょうか。それはユダもまた、熱心にイエスさまを信じていたからです。その熱心さから、イエスさまを試したくなったのでした。彼は、イエスさまが本当に自分たちを救うために来てくれたメシアであるのかハッキリさせたかったのでした。この方は、本当にメシアなのか。それなら、何があっても死ぬはずはない。そのように思いながら、イエスさまを売り渡したのでした。ユダは、イエスさまを試したのでした。

この試しに対してイエスさまは「あなたの神である主を試してはならないと言われている」と言われます。信仰において大切なことは、神さまを信頼して自らを委ねることだと言われます。試して、確かめるのではなく、信じて一歩を踏み出すのです。

「試さない」ことは「愛する」事に繋がります。先ほどから何度も、イエスさまはユダを愛しぬいてくださったと話しました。ユダはとても賢い弟子でした。しかし、イエスさまは、ユダの賢さだけを見るのではなく、彼の心の弱さを見抜かれていました。その上で、このようなユダが自分に従うかどうかを確かめるのではなく、愛しぬいてくださったのでした。ユダはイエスさまを試しましたが、イエスさまはユダを試しません。この事は、神の子であられるイエスさまの神様への態度にも表れます。神さまは、イエスさまに十字架で死ぬことを命じられました。そしてイエスさまは「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に叶うことが行われますように」と、神さまを信頼し、愛し続けられたのでした。

 

このイエスさまが、今、私たちと共にいてくださるというのです。私たちを試すのではなく、何処までも愛し続けてくださっているのです。受難節の期間は始まったばかりです。荒れ野を旅する私たちの歩みは、まだまだ始まったばかりです。冒頭で、イエスさまはご受難の中で私たちに何を求められていたかという話をしました。私たちはこのイエスさまの愛に応えたいと思います。神さまを信頼する事を教えてくれたイエスさまに続くものとなりたいのです。今、共にいてくださるイエスさまと神さまを愛し、信頼し信仰し続ける、そのことを覚える、受難節を送りたいと願います。