大いなる掟

2020/08/02 三位一体後第九主日(聖餐礼拝 説教:牧師 上田彰) 

マタイ福音書223440 「大いなる掟――愛には陰が潜むのか」

 *火花を散らす

 神殿の前庭で、イエス様に対する敵意が火花を散らしています。火花が起こるのは、硬いもの同士が激しくぶつかり合うときです。人間の心の中にある、これは譲れないと思うもの、どうしてもここだけは通さないといけないと思うものがあるときに、火花が飛び始めます。

 火花の散り方が一層激しくなってきた様子について、今日の聖書箇所は次のように証言しています。冒頭の34節です。「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった」。今までは秘密会議のような形でこっそりとイエス様をたたきのめす策を練っていたのです。しかし今や、敵対者を亡き者としようとする集まりを、人目をはばからずに公に持つようになったのです。火花は隠せなくなってきた。爆発寸前なのです。

 そして一人の仲間をイエス様のところに送り、次のような質問をします。

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。

これはイエス様を「試す」ためのものでした。悪魔によって荒野でイエス様が「試み」られたように、ここでもイエス様は「試み」に遭(あ)うのです。

 今までは、いわゆる引っかけ問題が出されてきました。ここでは違います。真剣な問いです。それが「試み」であるという理由はむしろ、この質問を出すに至った、火花が飛びそうな状態になっているファリサイ派の者たちを、そして彼らの問いを、主は受け入れることが出来るか。彼らは練習試合としてではなく、真剣勝負の「試み」を挑んできたのです。

 彼らも、最初は余裕がありました。戦略を練って、イエス様を罠に陥れるということを考えていました。しかし罠に陥れようとすればするほど、自分たちの形勢が不利になってくることに気がつきました。そのような状態の時に、つまり戦争で言えば、敗色濃厚、あとは降参か玉砕かというような状況になったときに、その集団の本当の姿が現れます。

 ここでファリサイ派が降参しようとしたのか、それとも玉砕しようとしたのか。彼らは、律法に関心を持っている者であれば誰でも一度ならず考える、重要な問題をここで問うことにしたのです。どちらかといえば玉砕に近いかも知れません。この後もイエス様の神殿での説教は続きますが、今日のこの問いがファリサイ派など敵対者からの最後の問いということになります。この後始まるイエス様の長い説教を導き出す、最初のきっかけとなるファリサイ派の渾身の問いです。

 神殿でのやりとりにおいて言葉を発するファリサイ派の最後の姿は、やや唐突な感じもします。なにかこう、ファリサイ派がぎゃふんと言ったとか、そういう終わり方をしてほしい気もするのですが、イエス様がファリサイ派の挑戦である質問にお答えになった後の反応は、マタイ福音書には残っていません。やりとりが一往復で終わるのです。

 ちなみに、同じ記事はルカ福音書では善きサマリア人のたとえへとつながっていきます。つまり、「あなたの隣人を愛しなさい」の後に「隣人とは誰なのですか」という問いが二往復目として出されて、それに対して善きサマリア人こそが困っている人の隣人として示され、行って同じようにしなさい、と主はおっしゃいました。(※この箇所は、「困っている人」が「隣人」として示されるのではなく、「助けた人」が「隣人」として示されます。「助けた人」を「愛しなさい」と示しているところに福音書記者ルカの仕掛けがあります。マタイとは違う味わいを醸(かも)し出しています。)マタイにはそのようなやりとりは残されていません。つまり、今日の箇所で福音書記者マタイは、ファリサイ派の自己中心的な罪深さを告発する形ではなく、ファリサイ派の渾身の問いとイエス様の渾身の答えがぶつかり合うその様を、その場にいた人たちの一人として深く心に刻んでいるのです。

 ですから私たちも、「イエス様はいつだって偉大で、それに比べてファリサイ派はいつも小さい俗物だ」というような、いつもの考えで今日の箇所を読むのではなく、真剣な問答を前にして、あるときにはイエス様を、あるときにはファリサイ派に顔を向けるような仕方でやりとりを見て参りたいと思います。

 

 *大いなるものの前に立ち尽くす

 ファリサイ派の質問は、どの掟が最も重要か、というものでした。ギリシャ語の元の言葉で言えば、どの掟が一番「メガ」か、つまり一番偉大であるか、となっています。メガというのは、要するに大きさを意味しています。新共同訳では意訳して「重要」と訳しています。例えば、安息日を守るという律法は大事な律法です。メガな掟です。しかし、人が穴に落ちている場合に、助けるというのも大事な律法、メガな掟です。では安息日に人が穴に落ちているのを見つけた場合はどうすればいいのか。つまり、人を助けるという掟と、安息日を守るという掟は、どちらがメガか、というのは当時よく交わされた議論のようです。因みにこの問いに対しては三つの立場が代表的で、「安息日であってもすぐに手を取って助ける」という立場(愛を優先)と、「落ちた人が死にそうなら何らかの方法で引き上げる必要があるが、すぐに死なないようであれば、安息日が終わってから助ければよい」という立場(安息日律法を優先)、「手を取って助けるのはまずいので、縄ばしごのようになるもの、たとえば草を結んでつないだものや布きれをつなぎ合わせたものを穴の中に下ろして、落ちた人が自力で上がることが出来るように手助けをするのは問題ない」という立場(その中間)があったようです。二つの、メガな掟をどのように調和させるか、これは律法解釈の神髄とも言えることです。

 律法解釈をする者たちの間に、助けてはならないという理屈はありません。問題は助け方、愛し方なのです。確かに、「助け方を議論する」ことと、「実際に助ける」ことの間には、律法の解釈者たちにとっては距離があるようです。

 実際に困っている人がいるときに、時々問題となるのは、いくら助け方の理論がしっかりしていても、実際に困っている人が助けられないことがある、ということです。例えば特別給付金に関して、次のような報道があります。特別給付金を受ける際に、住所不定のホームレスが受けられない、ということが実際に起こっています。色々なところで申請をして何回も給付金を受けることがないように、住所を一つ確定して申請をしなければならない、という決まりがあり、その際に、テント住まいや段ボール住まいはだめ、公園の中を住所として申請することが認められないのは、最高裁の判例があるのだそうです。すると、一番助けを求めているであろう人たちに特別給付金の制度は助けの手を差し伸べることが出来ないことになります。

 同じように、律法学者が「助け方」に関心を持っていると聞くと、「ああ、例によってファリサイ派は助け方を論じる余り、助けることに疎い人たちなのだな、そんな人たちは本当に困っている人たちからは愛想を尽かされているのだろうな」と思ってしまいます。しかし興味深いのは、ファリサイ派は、当時の貧しい人たちから、圧倒的な支持を得ていました。庶民の味方のふりをして庶民を裏切る現代の政治家とは少し話が違います。確かにファリサイ派の人たちは、一方で面倒くさい律法主義者だと実際に思われていました。にもかかわらず、社会的な救済が一番後回しにされることが多い貧しい人から、根強い支持を受けていたのす。なぜでしょうか。

 おそらく、「律法を通じてこの貧しい私たちは神様が救ってくださるに違いない」、という強い救済願望があったからではないかと思います。この点は現代とは大きく異なります。現代の政治において、政治家が約束を守らないということはよくあります。政治家を選ぶために選挙がありますが、選挙の際に都合の悪い事実は選挙の後に公表されるというのが半ば当たり前となりつつあります。おそらく当時の政治だってそうだったのでしょう。しかし聖書の時代の人々は、指導者の甘い口約束がどんどん裏切られていく現実を目の当たりにしながら、人間との約束が裏切られ、そのことによって傷つけられる度に、固まっていったものがあります。それは神様との約束への憧れです。神様は裏切らない、大いなるお方、メガであるお方は裏切らない、という思いが強くなっていったのではないでしょうか。聖書は旧約と新約に分かれます。その意味は、聖書というのが約束の書物だということです。そして律法というのは、何かよく知らない人からよく知らない形で掟を押しつけられるというようなものではなく、神様が約束をしてくださった、その約束を喜んで心から従うという意味があったのです。ですから、神様との約束である律法を厳格に守ろうとする姿を尊敬する人が増えてきた。律法主義こそが、神様の約束の実現のために取り得る、唯一の信仰的な態度ではないか、信仰者のメガな姿なのではないか、と。今日出て参ります一人の律法の専門家は、良い意味の律法主義を純粋に信じていました。彼の中には、イエス様を引っかけて転ばせるというような意味の悪意は全くありません。マルコやルカは、この問いはイエス様を引っかけるものだと考えました。しかし、マタイは、違う捉え方をしています。ファリサイ派の人たちの根本関心がここに出ていて、この問いにどう答えるかによって、イエス様の救いの意味がはっきりするのだと考えたのです。彼は尋ねます。

<<どの掟が一番大きな掟ですか。どの掟の前に私たちは立てばよいのでしょうか。私たちはどの掟に心と精神と体を委ねれば良いのでしょうか>>、と。

 イエス様の答えはこうです。

<<『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』そして、『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つの掟が中心なのだ。この、二つにして一つである掟こそが、最大のものである。あなた方は、この掟の前に立ちなさい。この掟の大きさを信じ、すべてを委ねなさい。>>

 

 大きなものを目の前にして、そのメガぶりを信じるというのは、分かる気がします。当時の信仰者は神殿の前に立ち尽くして、その大きさに圧倒されました。現代で言えば超高層ビルを見上げながら圧倒されるのに似ています。国会議事堂を見上げたときに、伝統と権威の大きさに圧倒されます。また人によっては、山に上ったときに、そこから見える景色のスケールに圧倒されるということもあるでしょう。建物そのもの、伝統、権威、そして自然の大きさが圧倒することがあるのです。

 

 *大いなる掟、その深さ(愛の意味)

 それなら、律法の大きさにもまた圧倒されることがあって良いのではないか。その大いなる掟とは、神と隣人とを愛しなさいという掟だというのです。

 愛する、という言葉の意味から考えてみたいと思います。

 以前に仕えていた教会で、教会全体が大きな混乱の渦に巻き込まれたことがあります。二つの相異なる主張がぶつかり合っていました。お互いに一見正しそうに見える主張を唱えていました。自分たちの主張が正しい、相手の主張が間違っているという激しいやりとりが、教会に通う人たちから笑顔をだんだんに奪っていきました。その時に私が、当時伝道師であったのですが、懇談会という名の討論会で発題をすることを命じられました。

 そこで私はその数年前に籍を置いていた大学の研究室、神学校に入る前の年に実際に経験した出来事について最初に語りました。その研究室のゼミでは、毎週研究発表が行われていました。研究室のトップである教授は、その分野において他を圧倒する有名な研究者でした。私は50年近い人生の中で、この人より頭の切れる人を日本人の中では見たことがありません。私のような事情がよく分かっていないが正規の学生以外に、たくさんの聴講生が詰めかけて、発表したいと申し出るのです。あるときの発表者が、10ページ分くらいの発表資料を配付し、読み始める形で発表を行いました。正確にいえば、行おうとしました。ところがその教授が、最初の一行を読んだところで、ストップをかけたのです。そしてその一行目が、いかにずさんな表現であるかということについて、そのゼミの90分すべてを使って叱責をした、叱ったのです。発表者は90分立ったままその説教を聞き、その後研究室に二度と現れることはありませんでした。その数年前の体験について私は教会での懇談会で語った後、次のように続けました。「教授は、意地悪でそんなことをしたのではない。私も相当にきついことを言われたことがある。教授は、真理を語ることを通じて学生たちを愛していたのではないか。大学というのは真理を探究する場所だから、そういう事はあり得る。しかし教会はまた別のところである。真理を通じて愛を語るのではなく、愛を通じて真理を語るのが教会なのではないか。」その当時の発題資料がまだ残っているので、そのまま読みます。

 <<学者ならそのように「真理」を突きつけることが「愛」なのですが、教会ではそうではありません。「愛」を持って接することが同時に「真理」でもあるのです。これらを高度に合致させるのが牧師の、そして役員の、牧会の務めです。…「真理は愛である」ではなく、「愛は真理である」・「牧会的わざに真理がある」という言葉こそ教会的な言葉なのではないでしょうか。この場に、学問的真理を追究するために集まっている人は一人もいません。誰もが信仰者(つまり牧会者)として、主のために何が出来るかを知るために集まっているのではないでしょうか。>>

 「教会会議の倫理」と名付けられたこの発題において、「真理を示すのが愛なのではなく、愛を示すことこそがキリスト教的には真理なのだ」、これが教会の会議のあり方であり、信仰者のあり方なのだ。そんなことを入念な準備をした上で、懇談会の場で語りきったつもりでした。

 しかし、語りきったという思いは、その発題の直後に広がった冷たいあざ笑いによってかき消されました。愛はすべてに先立つという、祈りのようなメッセージは、なかったことにされてしまった。愕然(がくぜん)としました。全エネルギーを使って話した後だったので、会が終わった後机に頭を突っ伏してしまいました。

 しかし同時に、ある種の「悟り」をその時に得ました。愛するということの中には、こういう経験も含まれているのではないか。愛したら、愛し返してくれるというのは、まだ計算高い愛に過ぎないのではないか。愛したからといって、必ず報いがあるとは限らない。一方的な愛、一方的な祈りというものがあって、報いがあってもなくても教会の伝道師、あるいは牧師というのは、そして広げていえば教会役員というのは、さらに信仰者とはそもそもすべての人が、互いのために祈り続け、互いを愛し続けるものなのではないか。これが「愛」だ。

 人間の愛を、神様の愛になぞらえて一方的な愛と言い切ることには語弊があるかも知れません。しかし、その時に牧師としての教会員を愛するという務め、さらに、神様が私たちを一方的に・無条件で愛して下さるということを悟ったように思うのです。

 それから後もその教会には色々ありました。しかしその教会が人間的な混乱を克服し、さらにかの懇談会から一年足らずの間に一つにまとまり、そして、新しい地において開拓伝道を開始するという教会総会の決議を上げるに至ります。その経緯について語れば、数回分の修養会を開くことができるかも知れません。しかし、思うのです。むしろ自分にとって思い出深いのは、あの懇談会の方なのではないか、と。「愛とは、報われることがなくても愛し続けるということなのだ」と教えられた経験を、忘れることは出来ません。

 

 *「自分を愛する」ことの難しさ

 イエス様よりもはるかに前、ギリシャの哲学者たちは、次のように言いました。「あなたがしてほしくないことを他の人にはするな」、と。しかしイエス様はこうおっしゃったのです。「あなたのしてほしいことを他の人にもしなさい」。気がつかされるのは、古代の哲学者たちは、自分を愛することを肯定していないのに対して、イエス様は、自分を愛することを隣人愛の前提にしている、ということです。哲学者たちの語る「愛」には躊躇があります。愛するということを、「報いを求めること」だと考え、そして「卑しいこと」だと考える。しかし、イエス様は、自分を愛することを、ためらうこと無く勧めておられます。

 自分を愛することとは、どういうことでしょうか。普通に考えれば、自分で自分を大事にし、他の何よりも優先することが、自分を愛するということなのでしょう。しかしそれは単なるえこひいきです。えこひいきを愛と取り違えて他の人に向け、隣人を愛したことにする、というのには無理があるのです。自分を愛するということにはそもそも、自分に関心を持ち、他の誰よりも自分の立場と利益を優先するということ以上の意味があるのです。

 どう表現したらいいのでしょうか。理屈の上ではこうなります。「自分を本当の意味で受け入れ、自分の中の頑(かたく)なさ、自分の中のもろさ、それらすべてを受け入れて、肯定する」。言葉の上ではそうなるのではないかと思います。しかしそれ以上に思わされるのは次のことです。大いなる戒め、メガな戒めは何かと聞かれた今日の箇所で、十字架につけられる直前のイエス様が敵対者の前で「愛」について語る姿を見れば、それで十分なのではないか。

 人間は、自己肯定が十分でないままに他人を愛そうとし、失敗することを繰り返しているのではないでしょうか。今日の討論に出てくる律法の専門家だってそんなところがあります。そして私たちも同様です。報いを期待して隣人を、また神様を、愛する。それは全身全霊の愛ではありません。ですから、心と、精神と、体を持って愛を実践したイエス様の姿を思い起こす必要があるのです。

 イエス様が、神様を愛しなさいとおっしゃった後に、他人を自分のように愛しなさいとおっしゃり、そしてこの二つは分かれていない、一つだということをおっしゃるとき、「愛するということは、触れたら壊れてしまうような繊細なものを愛する仕方を学びなさい」という意味だということに気がつかされます。

 律法には愛がない、というわけではありません。19世紀の信仰者キルケゴールは、全身全霊を持って行う、報いを求めない愛とは、人間の自然な感情による愛を越えていると考え、こう言いました。「愛とは、戒めの形を取っていなければならない」、と。「愛しなさい」と示す律法がやはり必要なのです。そして、私たちは次のようにも言いたいと思います。「こう愛するのだ」と示して下さるお方が、私たちには、どうしても必要なのだ、と。

 

 *大いなる掟、その広さ(愛の範囲)

 有名なたとえで、天国と地獄の違いはほんのわずかだ、というものがあります。地獄に送られた者は、食べる際に、皆長い箸を持たされています。箸を操って自分で自分の口に入れることが出来ません。それに対して天国に入れられた者は、やはり長い箸を持たされているのですが、互いに向かい合って、相手の口に自分の箸を使って食べ物を入れて上げることが出来る。

 こういう状態を実現する、福祉の精神のことを柔らかく言い換えた表現が、先日少し紹介をした、ソーシャルという言葉です。留学時代、教会立の寮に住んでいて、その共同の台所に、誰が食べてもいいよという意味でソーシャルというメモが貼り付けたお皿があることがあります。この言葉をドイツ語の辞書で引きますと、いわゆる「社会」という言葉ももちろん出てきますが、三番目くらいにこうあります。「皆の役に立つこと。いわゆる公共の福祉のこと。共同体を作り、発展させるもの。経済的に弱い人を助けるもの」という定義が記されていました。

 私たちはソーシャルという言葉は、社会的という意味だと頭の中に刷り込まれています。そして社会というものが当たり前に存在するという風に思い込まされています。しかし、社会というものは、愛を持って互いに仕え合うことがなければなり立たないということを、ソーシャルという言葉は意味しています。

 このような意味のソーシャル、ソサエティーというのは、現代の言葉遣いでいえばコミュニティーのことです。わざわざ苦労して長い箸を持たされて、そして相手の口に食べ物を運び合わなければならないような、いってみれば面倒くさいところに私たちは身を置いています。いえ、そこに喜びを持って身を置くことが、許されています。

 現代において、人々の交流はコミュニティーの中に留まるのではなく、世界大の大きさに広がりました。二日あれば地球の裏側にまでいける時代になったのです。そしてそれゆえに、中国の片田舎で起こった感染症が瞬く間に世界中に広がるということをも経験しました。ソーシャルディスタンスということが言われています。ソーシャルディスタンスがなぜ「ソーシャル」なのかと言えば、「愛ある配慮を持って互いに距離を取りましょう」という意味なのです。現代においても、ソーシャルの精神は生きています。私たちにとっての愛すべき隣人は、もはや自分の隣の席に座る人という意味だけではなく、全世界の人という意味になりました。隣の人をも、いえ自分をも十分愛せない私たちが、地球の裏側の人をも愛さなければならないという、恐ろしく難しい時代になってしまいました。

 そして思うのです。近代の技術革命が起こるより遙か昔、「あなたの隣人とは誰か」と聞かれたイエス様は、倒れていた人を助ける一人のサマリア人を示したのでした。その意味は、飛行機が出来るよりはるかに前から、あなたの愛すべき人はありとあらゆる所にいる、ということをイエス様は教えて下さった、ということです。

 

 *大いなるお方の前で

 敵意の火花を散らすファリサイ派の中から一人の律法の専門家がイエス様の前に進み出て、イエス様を試しました。最も大いなる掟とは何か、と問うたのです。それに対してイエス様は、愛することだ、と答えました。理論的な答えを口にしたというのではありません。実際に愛したのです。彼らに対して両手を広げ、彼らを受け入れ、そしてその格好のままに十字架におつきになりました。ファリサイ派からの質問への最終的な答えは、十字架によって完結します。大いなる掟は何かといって、「愛し方の理論」を問題にしてきた熱心なファリサイ派、火花を散らしながら、爆発寸前の姿で近づく一人の信仰者を、主は受け止めます。「愛を実践するお方」、大いなるお方がファリサイ派の、そして私たちの、前におられる。

 

 主が、愛を持ってお築きになったのは、教会というソサエティーであり、世界というソサエティーです。私たちはそのうちに入れられて、生かされて、愛することを、命じられています。                                †